じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
【思ったこと】 170729(土)ボーム『行動主義を理解する』(61)刺激性制御と知識(11) 昨日に続いて、 ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社. の話題。 本書157頁からは、自分が自分を知るという自己知識について詳しく説明されている。従来は、「自己知識は、他者には利用できない特別な情報に依存する」と考えられてきたが、本書ではそれを否定し、代わりに「自分が自分を知るという自己知識は、他者について知るという他者知識と同じ種類の公的な観察に依存する。」という立場を強調している。昨日も述べたように、その根拠の1つとしては、フェスティンガーの認知的不協和の実験と、それに関連したベムの実験が引用されている。フェスティンガーの実験では、1ドルしか報酬を受けなかった協力者は、明らかに退屈な実験を「実験は楽しかった」というように不協和を解消する方向で評価したが、ベムの実験では、自分が楽しかったかどうかではなく、第三者である実験参加者が楽しかったのかどうかを評定してもらった。しかし結果はフェスティンガーの実験と同様であり、このことから、被験者たちは、他者の行動を観察するように自分自身の行動を単に観察しただけにすぎないという主張が傍証されている。 「自己知識は他者知識と同じ種類の公的な観察に依存する。」という考え方は、けっきょく、私的出来事もすべて公的な観察に依存するという意味を含むことになり、公的出来事のみを研究の対象とするという方法論的行動主義の道を進む可能性がある。もちろん、私的出来事を報告できるようになるための発達の過程では、まずは公的な観察に依存した報告が強化され、その般化として、公的に観察できない出来事までもが報告できるようになることは確かだが、本書の主張、つまり公的な観察だけに依存すると言ってよいのかどうかは慎重に見極める必要があるように思う。 160頁からは、自己知識に関連して「内観」の話題が取り上げられている。本書によれば、 自己知識についてのライルの説明は、スキナーの説明とほとんど異ならない。しかし、内観に対する彼の批判だけは、スキナーの批判と異なる。ライルが内観を否定したのは、論理的な理由からである。と指摘されており、要するに、「思考を観察する」という時の「観察」というのは「観察の観察」という無限後退に陥る。「コマドリを観察する」という時の「観察」というのが、コマドリに対する一連の行動のラベルであるのと同様。このあたりは、ACTの「観察」概念と結びつけて検討する必要がありそうだ。もっとも、ACTの場合、一般読者向けに使用される「観察」という用語と、関係フレーム理論の中で学術的に定義されるレベルの用語は異なっており、この種の議論をする場合は後者のレベルで行う必要があり厄介である。 次回に続く。 |