じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



10月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る


 文学部東側にあるナンキンハゼ。左側の低い木は手前が鬱金桜、後ろが八重桜。大学構内各所に見られるナンキンハゼに比べると葉っぱが小さく、樹木全体が真っ赤になる。樹木台帳には特定の品種は記されておらず単に「ナンキンハゼ」として登録されているようだ。

2017年10月30日(月)


【思ったこと】
171030(月)日本行動分析学会第35回年次大会(18)超高齢社会における行動分析学(16)終末期の迎え方(1)

 10月29日の日記の続き。

 話題提供の終わりのところでは終末期の迎え方について取り上げた。

 まず大前提として、病気による苦痛を避けようとしたり死を恐れたりすることは、進化論的にみて適応的な反応であることを強調した。仮に、地球上に病気になることが快楽であったり、死に結びつくような危険をおかすような動物が出現したとしても、すぐに死に絶えてしまう。人間を含めて、地球上の動物は、有害な事象を避けるように行動する形で(=嫌子消失の随伴性による逃避、嫌子出現の随伴性による弱化、嫌子出現阻止の随伴性による回避など)進化してきたと言ってよいだろう。

 しかし、いま生きている動物は誰も死を経験していない。人間以外の動物はおそらく死そのものは恐れていない。死の直前の苦痛に対して最善の反応をしているだけであろう。いっぽう人間の場合は、他者の死を経験したり、自身の怪我や病気からのアナロジーとして、「概念化された死」を恐れるようになることがある。その恐怖が「いま、ここ」の生活に弊害をもたらす可能性がある。Skinner & Vaughan (1983)【大江聡子訳】は次のように指摘している。
...恐怖を抱かせているのは死そのものではなく、死について語ったり考えたりする行為なのです。そうした行為はやめることができます。会話に飽きてきたら話題を変える。鼻歌で歌っている曲がイヤになったら別の曲に変える。新しい話題が元の話題よりもおもしろければ、あるいは新しい曲のほうが楽しければ、変えることは簡単です。同じような方法で、死を気にしないように自分の意識をそらすことは可能なのです。
 なお上記の訳では「自分の意識をそらす」となっているが、行動分析学では「意識をそらす」という表現はしない。この部分の訳は「意識」ではなく「注意をそらす」とするべきであろう。

 いずれにせよ、事実は事実として受け入れ、派生する言語反応(=死について語ったり考えたりすること)はできるだけ起こりにくくすること、もしくは、それと競合するような(=同時には起こらないような)別の言語反応を起こりやすくすることで対処していこうというのがスキナーの基本的な考え方のようにみえる。

 もっとも、すでに死の恐怖に陥っている人にとって、死について考えないように行動を変えることはなかなか困難であろうと思われる。そもそも、「××について考えないようにしよう」と考えること自体、「××について」という形で××のことを考えてしまっている。

 このことでふと思ったが、私が子どもの頃(←と思ったが、実際は14歳の頃だった)に、みんなのうたで「お化けなんてないさという歌が放送されていた。出だしは「おばけなんて ないさ おばけなんて うそさ」で始まるが、ここでも「お化けは無い」「お化けは嘘だ」と考えることですでに2回もお化けのことを考えてしまっているのである。この歌はなかなか示唆に富んでおり、歌詞の2番目では
ほんとに おばけが/でてきたら どうしよう/れいぞうこに いれて/カチカチに しちゃおう
となっているが、カチカチにするのはおそらく至難の業であろう。次の3番目では
だけど こどもなら/ともだちに なろう/あくしゅを してから/おやつを たべよう
となっていて、おそらくこれがお化けを怖がらなくなるための最も有効な対処法と言える。

 次回に続く。