Copyright(C)長谷川芳典 |
10月9日の夕刻、岡山市内を移動中、ドクターイエローを目撃した。これまで、あらかじめ運行情報を入手した上でカメラを構えることは何度もあったが【例えばこちら】、全く偶然に遭遇したのは今回が初めてであった。これはきっと良いことがあるに違いないと思っていたところ、実際、夜になって良いことが起こった。 |
【小さな話題】 ポリティカル・コレクトネスとアイデンティティ・ポリティクス ポリティカル・コレクトネスは 1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う。という意味で使われている。日本でも、差別用語と批判されて意図的に言い換えが推奨された場合もあれば、「スチュワーデス」が「客室乗務員」、「伝染病」が「感染症」というように、(少なくとも私個人の認識レベルで)いつの間にか言い換えが定着し、そう言えば最近あの言葉は耳にしなくなったなあと感じる用語もある。 もう1つ、「アイデンティティ・ポリティクス」とは、 主に社会的不公正の犠牲になっているジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。この2つは連動しており、差別を受けている人たちがポリティカル・コレクトネスのスローガンを挙げて一致団結して闘うということはこれまでもあった。 もっとも、アイデンティティ・ポリティクスの運動は、それに反発した「反ポリティカル・コレクトネス」という政治勢力を生み出し、結果的に社会を分断してしまう可能性がある。なぜなら、アイデンティティ・ポリティクスはあくまで世界や国民の一部であって、それに当てはまる人と当てはまらないが必ず出てくるからである。当てはまらない人でも理解者にはなれるが、当事者にはなれない。「どうせあんたは○○ではないでしょ」と言われてしまえばそれまで。逆に、当てはまらない人たちが相当の力を持っていると無視されたり隔離されたりする。 アイデンティティ・ポリティクスの精神は正しい。しかし、政治というのは、正しいとか間違っているといった理屈で変わるものではない。好むと好まざるにかかわらず、その基本は、異なる勢力の間の力関係、ゲーム理論によって決まっていく。なので、けっきょくは、理屈としての正しさではなく、戦略としての有効が物を言うことにならざるを得ない。アメリカのトランプ政治とそれに対する反発も同様である。 |