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楽天ブログでチベット旅行記を連載しているところであるが、カトマンズのダルバール広場の彫刻の話題を取り上げようとしたところ、 ●本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。 という理由で書き直しを命じられた。Web日記は1997年5月以来20年以上執筆しているが、執筆内容が「わいせつ、もしくは公序良俗に反する」と判断されたのはこれが初めてであった。当初執筆した内容で検閲にひっかかったと思われたのは、 カーマ・スートラの彫刻については、現地ガイドさんは、若い修行僧の性教育のためだというような話をしておられましたが、未確認。もっとも、ヒンドゥーにせよ、仏教にせよ、もともとは性行為を遠ざけておらず、じっさい、チベット寺院の壁画の中にも歓喜仏(合体仏、和合仏、交合仏、男女合体尊、...)があり、仏教が中国に伝わったのち、儒教の影響を受けて禁欲的な戒律が課せられるようになったのではないかと思われるフシがあります。という部分であったが、いろいろと語句を入れ替えて試してみたところ、どうやら「性行為」という語句を使うと機械的に「わいせつ、もしくは公序良俗に反する」と判断されるようであった。 これまで20年以上Web日記を執筆しているが、ブログサービスでこういう事前検閲が行われているとは全く知らなかった。 確かに、差別的表現、犯罪や自殺を唆す表現、特定個人に対する誹謗中傷などの表現は事前にシャットアウトすべきだとは思うが、特定の語句を使用しただけで「わいせつ、もしくは公序良俗に反する」として書き直しを命じられるようであると、当該語句に関して自由に意見が述べられなくなる恐れがあるのではないかと懸念される。 ※ちなみにこのWeb日記のほうは、執筆開始当初から、出来合いのブログサービスではなく、自前のHTML形式文書としてレンタルサーバにアップロードしているので、法律に違反しない限りは何でも言いたいことを言いたいように書き続けることができる。 |
【連載】 関係反応と関係フレームをどう説明するか(31)「関係フレーム」とは何か?(19) いろいろな関係フレーム(14)Distinction(3)差別の起源 昨日の最後のところで、 Star Trek Continuesの第9話のせりふ: ●There is no "them" any more, my dear. Only "us." 【もう「彼ら」という呼び方はないのよ、あなた。「私たち」だけよ。】 を取り上げたところであるが、「distinction」は「差別」という意味での「discrimination」につながる意味があり、そのプロセスを精査することは差別解消に役立つように思われる。 ところで、この差別の起源だが、以前拝読した、池田先生のブログ(2018年1月17日付け)では、
ここで大事なのは何をタブーにするかという内容ではなく、一つの集団が同じタブー(記号)を信じているという形式である。タブーがお笑いと結びつくのも偶然ではない。自他の境界はもともと恣意的なものであり、「民族」の定義も不明だ。と指摘されていた。私はブログマガジンの読者ではないのでその先どのように御議論が展開されていったのかは把握していないが、「差別の意味は、他者を排除して自己のアイデンティティを作り出す」というのはその通りであるように思う。要するに、ある社会において、ある集団に「所属」し、恣意的に設定された基準に合致しない他者を排除するという行動は強化されやすいとも言える。これは、人間が群れに所属して生活し他の群れを排除するという形で進化した名残かもしれないが、現代社会においても、差別をすることがある階層の人たちを利する結果をもたらしているという可能性もある。(単に「進化の名残」であるなら、現代社会では差別を強化する随伴性はすでに消失しているはず。) では、特定の人種や民族などに対する偏見や憎悪は、どういう形で形成されていくのだろうか。スキナーの著書などでは、 ●敵対する国の人々や国旗などの映像を、その国の兵士が行った残虐な行為の映像と対呈示する というレスポンデント条件づけによるものだとされていた。確かに戦時中にプロパガンダとしてはそういう手法も使われてきたが、それだけでは、特定の国や民族に対する印象はそう簡単には変化しないように思う。 むしろ現代社会においては、国際的なちょっとした衝突や、その国の人の犯罪や不道徳的行為、要人の暴言などがニュースで誇大に取り上げられ、SNSを通じて不快な印象表明が拡散することによる影響が大きいように思う。つまり、特定国や民族に対する印象は、直接体験による条件づけで形成されるのではない。SNSなどで言葉と、その言葉というお皿に乗っけられた憎悪をもたらす刺激機能が、関係フレームを通じて急速に拡散する現象がおこりやすくなっているのではないだろうか。 じっさいのところ、中国、韓国、ロシアといった隣国の人々には、良い人もいるし悪い人もいる。どこの国だから良いとか悪いということは絶対にありえない。ところが、ちょっとしたいざこざがあると、まるで相手国の全ての人が悪人であるかのような嫌悪・憎悪が表明されたりする。せっかくの友好交流企画が、ちょっとした政治的対立で中止されたりすることもある。もちろん、これは日本人側ばかりでなく、相手国側の反日感情の形成についても言えることである。 ではどうすれば、差別や偏見や対立を無くすことができるのか。 1つは、関係フレームのしがらみから逃れられないことを逆手にとって、SNS上で反差別的な刺激機能の変換を進めていくという方法。 もう1つは、我々の印象形成が関係フレーミングによりゆがめられやすいという事実を広く伝え、SNS上での印象操作への耐性を築くことである。もっともこの2番目の方法は「広く伝える」とか「耐性を気づく」といったメタファーで表現しただけであって、行動分析的提案には至っていない。 次回に続く。 |