じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 北九州の散歩道沿いの桜。大部分はまだ蕾だが、1本だけ五分咲きの樹があった。


2019年3月22日(金)



【小さな話題】又吉直樹のヘウレーカ!「ボクらはなぜ“絵”を描くのか?」(2)言葉に囚われた見え方

 昨日に続いて、「又吉直樹のヘウレーカ!」の、

●ボクらはなぜ“絵”を描くのか?

についての感想。

 この回のサブタイトルは「なぜ絵を描くのか?」であったが、番組では次の2つの話題が混在しているように思われた。
  1. 普通に絵を描く時、人間は、言葉で捉えた世界を絵に表現しようとしてしまう。
  2. なぜ絵を描くのか?
 このうち1.については、前回も言及したように「子どもたちが描き始める“モノ”は、見たものというよりは知っている“モノ”」という事例が関連している。子どもが最初に描くお母さん、おとうさん、きょうだい、さらには乗り物や動物の絵というのは、実物の写生ではない。子どもにとって「お母さんの絵が描ける」というのは、「お母さん」という文字列に対して「オカアサン」という音声を発することと大差ないようにも思える。目の前に存在しないモノや事象について語るというのはまさに言語行動の本質である。この点で、絵を描く行動は言語行動の発達と大きく関連しているように見える。

 番組でも指摘されていたように、人間は言葉に囚われてしまうことで実物をそっくりの絵を描くことが困難になる。じっさい、人物写真を写生する際、股越しに写真を見ながら描いたほうが、実物に近い形になるといった例が紹介されていた。

 番組とは関係ないが、漢字によく似た模様を見せて正確に書き写してもらうという実験も考えられる。漢字を知っている人は、その模様そっくりの漢字に引きずられてしまうため、漢字とは異なる細部を見間違えたり、自分の筆跡に似た漢字に変形させてしまう可能性が高い。漢字を全く知らない人ももちろん見間違えをしたり再生のスピードが遅いことは確かだが、見本刺激の筆跡の特徴などはかえって正確に書き写すことができるはずである。

 そう言えばだいぶ昔、生まれつき脳に障がいがある画家の展覧会に行った時にちょうどサイン会があった。サイン会ではまず、入場者が小さな紙片に自分の名前(=長谷川芳典)を書いて手渡す。その画家は紙片を見ながら、画集の扉に「長谷川芳典様」と書き写してからご自身のサインをしてくれた。興味深いのは「長谷川芳典」という部分が私の筆跡そっくりになっていたことであった。言語障がい者の中には秀でた能力を発揮する画家がおられる。いくつかのタイプがあるので一概には言えないが、上記の話題のように、あるいは、言葉に囚われずに対象を描き出すことを得意とする方も少なくないのではないかと思われる。

 言葉が見え方に影響していることは、
  • 暗い部屋でもバナナは黄色に、リンゴは赤い色に見える(色の恒常性)。
  • 満月が輝く夜桜の写真を撮ると月は花びら一輪程度の大きさにしか写らないのに肉眼では遙かに大きく見える、
などさまざまな視覚現象から分かる。「サイエンスzero」の番組でやっていたが、人間の目は、目の前の瞬間を捉えるだけでなく、少し先の変化を予測するように知覚する性質があるという。【このことによってもたらされる錯視もある】

 これらはすべて、知覚レベルの反応の特徴に関するもので、描画段階での特性とは言いがたい。つまり、暗い部屋のバナナを黄色く描いたり、満月をじっさいの視直径の何十倍にも大きく描くのは、そう見えているからそう描いたのであって、絵を引き立たせるために作為的にそうしたわけではないように思われた。

 ということで、1.の「言葉で捉えた世界を絵に表現しようとしてしまう」という話題は、むしろ「我々が見えている世界は、言葉という色眼鏡を通した世界である」という話題として一般化したほうが分かりやすい展開になったのではないかと思われる。

 2.については次回に続く。