じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 岡大生協食堂(マスカットユニオン)が工事で臨時休業となったため、代替で営業しているピオーネカフェテリアを利用した。この食堂は、1階で注文・精算後、トレーにお皿を乗せたまま急な階段を上って2階席で食事をするシステムとなっているが、うっかり足を滑らせれば一番下まで転落する危険があり、一部では「恐怖の階段」と呼ばれているという(但し、エレベーターもあることはある)。こういう階段を設計したことも1つの謎だが、急な直線階段にもかかわらず大きな事故が起こっていないということのほうが岡大七不思議の1つとも言えるかもしれない。

2019年8月31日(土)



【連載】

又吉直樹のヘウレーカ!「独り言をつぶやくのはなぜ?」と言語行動論(4)「動物はきのうやあしたを理解できない」と「現在を生きる」

 昨日に続いて、又吉直樹のヘウレーカ! 「独り言をつぶやくのはなぜ?」についての感想、コメント。

 番組の終わりほうでは、メタ認知に続いて、「動物はきのうやあしたを理解できない」という興味深い話題が提供された。
  • パントマイムをする人に訊いたところでは、パントマイムではきのうやあしたは表現できないので、「きのう」と書かれた紙を出して状況を知らせる。
  • 我々は言葉を持ったことで、時間を過去にさかのぼったり、現時点からの未来を考えたりすることができる(時制を持つ事ができる)。
  • 「きのう」とか「あした」がいつ発明されたのかは分からないが、とにかく動物は現在に生きている。あしたのために何かしようとか、きのうこうだったという思い出にふけることはなかなかない。
  • 【又吉】子育ては?→【岡ノ谷先生】子育てもその瞬間瞬間に子どもとの対応をしているだけで、この子がひとり立ちしたら何をしようかなどと考えているわけではない。
  • 【又吉】渡り鳥は?→【岡ノ谷先生】渡り鳥はただ飛んでいるだけ。「冬に備えて餌を貯める」という言い方をするが、これは擬人的な表現であり、温度が下がってくると餌を貯めるような行動が出てくるだけであって、「寒くなるからそれに備えて餌を貯めよう」と考えているわけではない。
  • 動物たちも過去や未来についてイメージを持っている可能性はあるが、私たちはもっと具体的、例えば「3日前に何を食べたか」という問いに答えることができる。
というような内容であった【長谷川のメモのため一部改変あり】。

 番組では、「きのう」や「あした」を考えることはメタ認知であると説明されていたが、これは「メタ」ではなくて、視点の確立(perspective taking)の問題であると考えられる。
Barnes-Holmes, Y, McHugh, L., & Barnes-Holmes, D. (2004). Perspective-taking and theory of mind: A relational frame account. Behavior Analyst Today, 5, 15-25.

 人間の子どもたちは、まずは「○○が××をしている」というタクトを発することができるようになるが、そのうち、「わたし」、「あなた」といった視点と、「いま」、「あのとき」といった時制の区別ができるようになる。上掲の論文を含めて、関係フレーム理論の関連書では、従来の心の理論(Tom)に変わる新たな説明がなされており、納得できる内容となっている。
 なお、念のためおことわりしておくが、「きのうを理解する」ということと、「きのうの経験が今の行動に影響する」ということは別問題である。例えば、1日前に餌とブザーを繰り返し対提示されたイヌは、「いま、ここ」の時点でブザーの音を聞いただけでヨダレを出すであろうが【=パヴロフの条件反射】、だからといって昨日のことを思い出しているわけではない。条件反射という現象は、ブザーという中性的な刺激が条件刺激になったと記述すればそれで済むことであって、「昨日、ブザーと餌が対提示されていた」ということを「思い出して」いる証拠にはならない。

 こちらの論文などでも引用したように、
我々が言語的という用語を使うとき、それは必ずしも言葉を意味しているわけではないし、また、認知という用語を使うときも必ずしも言葉という形態をとって生じる思考を意味するわけではない。むしろ我々が「言語的」または「認知的」と言った場合、それは「派生的関係性を生み出すようなトレーニングを経た」ということを意味する。
ヘイズ,S.C.、ストローサル,K.D., &、ウィルソン, K.G. 著 武藤崇・三田村仰・大月友 監訳 (2014). アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT) 第2版 ─マインドフルネスな変化のためのプロセスと実践─ 星和書店. 【Hayes,S.C., Strosahl,K.D., & Wilson,K.G. (2011). Acceptance and Commitment Therapy 2nd ed. Guilford Publications Inc. 】

というところに言語行動の本質があるように思われる。

 「きのう」や「あした」という概念はあまりにも当たり前であるため、この宇宙に絶対的に存在し、かつ人間に生得的に備わった概念のように思い込んでしまいがちであるが、実際はそうではない。幼少期に「きのう何をしていた?」、「あしたは何をする?」といった応答に繰り返し晒されることで、経験的に形成されたものにすぎない。もし、宇宙のどこかに、昼夜や四季の変化のない惑星(惑星の公転周期と自転周期が同じであればそういう状況は可能)があれば、当然、「きのう」や「あした」は存在しない。そこに生活する宇宙人にとって、時間的な前後関係をタクトすることが適応上何のメリットもなければ、「過去」や「未来」といった言葉も存在しないであろう。

 であるならば、「動物は、きのうやあしたを理解できない」のではなくて、むしろ、「きのうやあしたがあるのは当然だ」と絶対視することのほうが間違いと考えるべきかもしれない。要するに、動物も人間も常に「現在に生きている」のである。人間が「きのう」や「あした」という言葉を使用するのは、それが強化されているからである。人間がとりわけ共同体の中で生活するにあたっては、何かの物理的変化(ここでは地球の自転)に対応した「きのう」、「あした」を使用することのほうが有利な結果をもたらすからそうしているだけにすぎないと言えよう。【なので、「きのう」や「あした」が不安や苦悩を派生させる場合は、それを受け流しても構わない。過去や未来に関する言葉を全く使わなくてもちゃんと、今を生きていくことはできる。】

 次回に続く。