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【連載】 又吉直樹のヘウレーカ!「独り言をつぶやくのはなぜ?」と言語行動論(5)「大きい水玉のシャツを着ているのが私です」 昨日に続いて、又吉直樹のヘウレーカ! 「独り言をつぶやくのはなぜ?」についての感想、コメント。 番組の最後のところでは、独り言とコミュニケーションで使う言葉の違いに関連して話題が取り上げられた。又吉さんのところに初対面の手紙が届いたという想定、中身は以下のような文面であった。 渋谷のハチ公前で10時に待っています。すると、
これについては、
ここからは私の考えになるが、まず、「大きい水玉のシャツを着ているのが私です」の解釈がマチマチになるのは、A「大きい」、B「水玉の」、C「シャツ」という語順にかかわる認知の構造が人それぞれで違っているからではなく、あくまで文脈の問題であろう。「大きい水玉のシャツを着ているのが私です」という手紙が届いた時に、それを「水玉模様が大きく描かれたシャツを着た人」と解釈するのか「水玉のシャツを着た大きなからだの人」と解釈するのかは、認知構造なるもので固定されてしまうほどリジッドではない。これが公園のベンチでの会話場面であり、目の前に水玉模様のシャツを着た人が複数歩き回っている場面を想定すると、
でもって、「(言語は)思考するには完全だが、コミュニケーションでは完全ではない。」という説明であるが、行動分析学やそれに依拠した関係フレーム理論は、そのようには考えていない。そうではなくて、もともと言語行動というのは文脈に依存する行動であり、思考する時に完全でコミュニケーションの時に不完全(=正確に伝わらない)であるように見えるのは、前者では暗黙のうちに文脈が固定されているのに対して、後者の会話場面では、話し手と聞き手の文脈がなかなか共有できないことにあるのだ。これは日本語と英語でも異なる。もともと、日本語は文脈がおおむね共有されたコミュニティの中で成立していったため、主語を必要としていない。文脈が完全に共有されている二者間では、動詞や形容詞一語だけで会話を重ねることができる。例えば、
次の「独り言で思考し、人とコミュニケーションを重ねる、それを繰り返すことで言葉は生まれた。」についても若干異論がある。私は、あくまで、コミュニケーションの中で、マンドやタクトといった昨日を持つ発話が強化され、視点取得が形成されていくなかで思考が発達してきたと考える。 最後の「情報習慣病」懸念は全くその通りだとは思う。また、最近では、文字入力の際に、よく使う言い回しの候補が表示されてしまい、ついついその表現候補を選択してしまうことがある。これによって、いつの間にか、自分の思考が誘導されてしまう恐れさえ出てくる。但し、「情報習慣病」で弊害とされる情報というのは言葉であるとは限らない。画像もあれば、メロディもある。また、言葉それ自体が溢れているというよりも、言葉と言葉との関係づけが大きな影響を及ぼしている可能性が高い。隠居人の立場からあえてご進言することが許されるならば、岡ノ谷先生にはぜひとも、関係フレーム理論に関心を持っていただき、機能的文脈主義との対話の道を開いていただきたいと思う。 |