じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 先日の上京時に通過した渋谷駅西口付近。かつての東横デパートは建て替えられることなく、今も「東急東横店」という名前で健在だが、周辺はいつ訪れても工事ばかりやっていて騒がしい。静かな落ち着いた雰囲気は永久にやってこないのかもしれない。なお、デパートには4本の垂れ幕がかかっていたが、いちばん右はどうみても中国語。訪日外国人で賑わっているということか。

2019年10月26日(土)



【連載】#又吉直樹のヘウレーカ! 「4色ボールペンって便利なの?」(2)背理法

 昨日に続いて、10月9日に再放送された、

又吉直樹のヘウレーカ! 「4色ボールペンって便利なの?」

の感想と考察。

 番組の終わりのところでは、数学的思考の一例として「背理法」が取り上げられていた。番組では背理法は、

●証明したい主張を一度否定し、そこから矛盾を導くことで真実を引き出す証明の方法

というように説明された。ウィキペディアではもう少し厳密に、
ある命題 P を証明したいときに、P が偽であると仮定して、そこから矛盾を導くことにより、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付けることである。
と定義されており、さらに、
P を仮定すると、矛盾が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入などと呼ばれる。これに対して ¬P を仮定すると矛盾が導けることにより P を結論付けることを狭義の背理法あるいは否定の除去ということがある。否定の導入と狭義の背理法をあわせて広義の背理法ということもある。
一般的に、背理法と言った場合は広義の背理法を指す。否定の導入により、¬P から矛盾が導けた場合、¬¬P を結論できるが、いわゆる古典論理では推論規則として二重否定の除去が認められているため、結局 P が結論できることになる。排中律や二重否定の除去が成り立たない直観論理では、狭義の背理法による証明は成立しないが、否定の導入や、¬¬¬P から ¬P を結論することは、認められる。
というように、狭義の背理法と広義の背理法が区別されていた。

 もっとも、こうした「背理法的思考」を日常社会の諸問題に当てはめることは難しい。

 例えば、「地球温暖化が進行している」という主張を背理法で説明しようとすると、まず「地球温暖化は起こっていない」と仮定し、現実には、氷河が融けていたり、海水面が上昇していたり、50年に一度と言われるような水害が起こっていることから、その仮定は矛盾していると論じることで、もとの地球温暖化の主張は正当化されるはずである。しかしながら、世間には未だに「地球温暖化はウソだ。各地の異常現象は偶然であり、変動の範囲内だ。」と主張する政治家がいる。

 番組で取り上げられた「ボクはカレーが好き」の証明もそう簡単ではない。背理法を使うと「ボクはカレーを好き」を否定して「ボクはカレーは嫌い」と仮定し、実際には、それにもかかわらず、きのうカレーを食べた(人に勧められたり強制されたりしないのに食べた)という事実から、「カレーが好き」という主張を証明することになる。

 しかし、食べ物の好き嫌いというのは「イチかゼロか」というような悉無律的なものではなく、確率的な行動傾向のようなものである。しかも、文脈(前の日にも食べたかどうかとか、胃腸の調子が悪いかどうかなど)によっても大きく変動する。事実関係をいくら調べたところで、好き嫌いを論理的に証明することはできないだろう。

 番組最後のところでは、
  • 例えば、締め切り1つの時は集中して頑張れるが、締め切りが複数あると「これは無理だなあ」と何も手につかなくなることがある。
  • しかし、できることからやっていけばじつは全部できる。
  • いっけん難しく感じるけれども、「又吉はいろいろやらなければならないことがあってこれを全部終わらせることは無理」っていう背理法。
  • もし無理だとしたら、「これもできないでしょ」に対して「いやできます」という形で、けっきょく、終わらせられない用事は1つも無かったことになる。
という形で勇気づけられるという話が出てきたが、これはどう見ても、背理法というより動機づけの問題。もちろん、「自分は何ひとつできない」と主張している人に対して、その人ができる小さなことを体験させることは形式上は「自分は何ひとつできないことはない→自分はできることがある」というように論理的な矛盾を打破するという点で背理法になっているが【←論理療法とも言える】、実際に、いろいろなことに前向きに取り組むようになるためには、ひとつひとつ行動を強化していくことが必要であって、「自分は何ひとつできない」という主張が打破されただけで急にやる気まんまんになるということはあり得ない。

 背理法による証明は中学の頃にしっかりと習った記憶があるが、どうにもしっくりこないところがあった。番組でも説明されたように、そもそも証明とは、

●ある事柄(命題)が正しいことを既に正しいと認められている前提や仮定から導くこと

とされているが、背理法を使ってしまうと、前提からの論理的なプロセスが不透明なままに終わってしまう可能性がある。

 例えば、住人が10人しか住んでいない島で殺人事件が起こったとする。被害者が他殺であることが明らかであったとすると、容疑者は残り9人のうちの誰かということになる。そしてそのうちの8人全員に明確なアリバイがあれば、背理法により犯人は残った1人ということが確定したことになる。犯人を特定するだけであれば背理法で充分だろうが、犯人を裁いたり、類似の犯罪が繰り返されることを防ぐためには、犯行動機や文脈を精査する必要がある。

 自然界の現象、生産活動、病気の治療なども同様で、背理法だけでは何かが起こるプロセスを示すことはできないし、それを造り出したり、改善したりすることもできない。