じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 文法経講義棟南側の樹木が約10年ぶりに剪定された。どうやら1月6日(月)頃に、専門の造園業者さんの手で整備されたようである。さすがプロだけあって、スッキリとした枝ぶりになった。

2020年1月12日(日)



【連載】又吉直樹のヘウレーカ! 「なぜネコは人をメロメロにするのか?」(その2)

 昨日に続いて、1月8日に放送された表記の話題についての感想・考察。

 番組では、猫の餌皿選択実験のほか、「ネコは人の言葉をわかっているのか?(何匹か飼われているネコは、仲間や飼い主の名前を知っているのか)」という研究が行われていることにも言及された。おそらく、これが飼い猫は自分の名前を聞き分けられるか?という研究を指しているものと思われた。ちなみに、イヌは1000語以上のオモチャの名前を知っているという研究があるという。イヌもネコも同じ伴侶動物として人と長い歴史を紡いでいるので、ネコでも言葉を覚えられる可能性があるというようなお話であった。

 もっとも、「イヌもネコも同じ伴侶動物なので、イヌと同じ程度まで言葉を覚えられるのではないか」という期待は、番組前半の今泉先生の解説とは矛盾しているように思えてならない。なぜなら、群れで暮らすように適応・進化してきたイヌの場合は、先祖の段階から仲間の識別、序列、規律、相互のコミュニケーションなどが重要な役割を果たしてきた。そうした野生動物を捕まえてきて飼い慣らし、より忠実で言葉を聞き分けるように改良した結果が現在の飼育犬となっている。これに対してネコは、今泉先生の言葉を借りれば、人間が農業をし始めた頃、ネズミが増えたために狩り場があるということで、ネコのほうから人間に近づいてきた。しかももともとは単独で行動する動物であり、群れで行動したり、相互にコミュニケーションをとる必要がなかった。いくら「伴侶動物として人と長い歴史を紡いできた」といっても、言葉を学習できるほうがより適応的であるというほどの淘汰圧は働いていないように思われる。

 あと、これは、飼い猫は自分の名前を聞き分けられるか?の話題に関しても述べたことであるが、「言葉がわかる」とか「言葉の意味を知っている」というような表現は曖昧であり、機能的にきっちりと定義した上で、どういう文脈のもとで、(名前に相当する)音声刺激がどのような機能を獲得しているのかを明らかにする必要がある。おそらく、恣意的に設定された音声刺激を手がかりにした弁別行動はネコでもできる可能性があるが、言語行動の本質と言われている「恣意的に確立された関係反応の派生」までは確認できないのではないかと思われる。

 番組の終わりのあたりでは、自分の気分を落ち着かせる行動(=転位行動)として、爪とぎなどをすることがあると説明された。狩りをする動物は、成功率が1割程度というように失敗のストレスが多い、これを発散するのが転位行動であり、人間でも人によって貧乏揺すりをしたり、頭をかいたり、顔を触ったり、といった転位行動があるということであった。もっとも、日常場面でしばしば見られるクセの中には、ストレス発散ではなく、知らず知らずのうちに強化されている迷信行動のようなものもあるはずだ。例えば、野球の選手がバッターボックスやマウンドで固有の仕草をしたり、大相撲の力士が仕切りのさいにそれぞれの力士固有のやり方で気合いを入れたりするのは、転位行動というよりは一種の迷信行動であって、結果によって強化されていると考えるべきであろう。

 もう1つ、ネコの気分は一瞬で変わるという面白い話題もあった。今泉先生によればこれも、狩りの失敗の際の気分転換として有用であるという。もちろんそのことも重要だろうが、私は、これまたネコが単独行動を基本としていることにも関係しているように思える。つまり、群れで暮らすイヌのような動物、あるいは人間もこれに含まれるが、気分の変化が激しい個体は他の個体との共同行動には不適であり最悪の場合は群れから排除されてしまう。これに対してネコは、もともと単独行動をしているので、気分がどのように著しく変化しても、周囲に迷惑を及ぼす可能性は少なく、不適応的になることもない。であるなら、むしろすぐに気分転換ができるという意味で、気分がコロコロ変わったほうがストレスが少なくて済む可能性がある。このことからも示唆されるが、情緒不安定であるとか協調性が無いというのは、それ自体は何ら悪いことではない。それが望ましくないとされるのは集団行動が求められる場面である。好むと好まざるとにかかわらず現代社会では他者との円滑な交流なしに生きていくのはなかなか困難なので、できるだけみんなに合わせて行動しましょう、というだけことである。