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昨日の日記で「ツツジは落葉樹か」という話題を取り上げた。ツツジの場合はおおむね常緑樹だが、一部落葉する品種もあるようだ。
いっぽう、アジサイは落葉樹として知られているが、寒風の当たらない日だまりなどでは落葉しない場合があるようだ。写真上はほぼ落葉した状態、写真中と写真下は葉が残っている状態(但しいちばん下はアマチャ)。 |
【小さな話題】迷惑をかけるとはどういうことか 昨日の日記で、 認知症の程度が重くなると家族に負担をかけるようになる。そうなると、自分の本意ではないにしてもやむを得ず施設に入居せざるを得ない可能性がある。と記したところであるが、迷惑をかけるというのはどういうことを言うのか、突き詰めて考えていくとなかなか難しいところがある。 まず、念のため辞書を引いてみると
もっとも、これらの定義では、何もしない限りは、他者に迷惑をかけることはゼッタイに無いということになる。しかし、例えば年末の大掃除の際に何もせずにゴロゴロしているのは家族に迷惑をかけていることにはならないのか、という疑問が生じるし、もっと大きな問題として、例えば、世界には貧困で苦しんでいるがたくさんいるのに何もしなくてよいのか、地球温暖化が深刻になっているのに何もしなくてよいのかといった疑問にも繋がってくる。 また、他者に世話をしてもらうことがすべて迷惑になると考えてしまうと、重度の障がい者は周りに迷惑をかけている人ということになってしまう。ピンピンコロリ志向の背景にも、長期間寝たきりになるのはイヤだという自分の都合ではなく、ネンネンコロリになると家族に迷惑をかけてしまって申し訳ないという日本的な発想が含まれていると聞く。 こうした疑問に対しては、「社会全体は1つのからだのようなものだ」という考え方をとることもできる。例えば、右手を骨折している人は左手だけでモノを掴む。左手は酷使されるだろうが、別段、骨折した右手のことを迷惑だとは思わない。からだ全体がうまく機能するように最善の役割を果たせばそれでよい。健常な人も障がいのある人も、それぞれのできる範囲で社会的な役割を果たしていけばよいのであって、迷惑をかけているかどうかで悩む必要はないという見方もできる。 もっとも、「社会>個人」という見方は、みんな自由だという多様性重視の発想と矛盾するようにも思える。例えば、いまの社会では、結婚しないのも自由だし、結婚はするが(不妊症などの事情がないのに)子どもは作らないというのも自由だと考えられている。しかし、社会全体としては、少子化は深刻な社会問題となる。 ま、結局のところ、いまの社会制度には絶対的な真理基準というようなものはない。人類の過去の経験の積み重ねの中で、多様な個人的な志向を正の強化により調整し、バランスを取りながらどうにかこうにかやりくりしていくほかはないのかもしれない。 |