じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 講義棟南の花壇で見かけたエンジェルトランペット(キダチチョウセンアサガオ、4月19日撮影)。例年、晩秋に開花し、霜にあたって地上部は枯れてしまうが、今年は暖冬のため地上部の枝がそのまま残り、新芽を伸ばしていた。屋外で、春先に開花しているのを見たのは今回が初めて。

2020年4月22日(水)



【連載】又吉直樹のヘウレーカ!「イヌノフグリはどこへ行った?」

 すっかり間が空いてしまったが、又吉直樹のヘウレーカ!についての感想と考察。今回は、4月15日に放送された、

「イヌノフグリはどこへ行った?」

について取り上げる。

 オオイヌノフグリは道端など至るところで見かけるが(例えばこんな感じ)、小さい花にもかかわらずなぜ「大犬のふぐり」と呼ばれるのかは不思議に思っていた。今回の番組によれば、もともとイヌノフグリという在来種があり、イヌノフグリに似ていてそれより大きいことから「オオイヌノフグリ」という名前が付けられたようである。ちなみに、イヌノフグリの名前の由来は、果実が雄犬の「フグリ」に似ているためであるが、オオイヌノフグリの果実はハート形であって、「フグリ」には似ていないという。なので、「オオイヌノフグリ」の花や果実のどこを見ても「フグリ」は連想できない。名前の由来はあくまで、

●果実は「フグリ」には似ていないが、果実が「フグリ」に似ている「イヌノフグリ」の近縁種でより大型なので「オオイヌノフグリ」となった。

と考えるべきである。なお、イヌノフグリの花の大きさは3ミリほどで、番組の画像ではオオイヌノフグリの花の1/3程度であるように見えた。

 さて、話題の「イヌノフグリ」であるが、ウィキペディアに、
東アジアに広く分布し、日本では本州以南に見られる在来種(古い時代に渡来した帰化植物である可能性あり)であり、かつては路傍や畑の畦道などで普通に見られた雑草であった。しかし、近年は近縁種の帰化植物であるオオイヌノフグリにその生育地を奪われたほか、育成地自体も人間の開発行為によって減少しているために数を大幅に減らしている。
と記されているように、現在はきわめて稀少であり、道端で見かけることは全くなくなった。

 私が疑問に思ったのは、絶滅危惧の原因の1つがオオイヌノフグリにあるという点である。番組の説明によれば、これは「繁殖干渉」によるものだという。同じ場所にイヌノフグリとオオイヌノフグリが繁殖していると、オオイヌノフグリの花粉がイヌノフグリの雌しべに付着し花粉管が胚珠まで到達する。しかしオオイヌノフグリの花粉ではイヌノフグリの種子はできず、しかも一度花粉管の入った胚珠は使い物にならないため、イヌノフグリが種子を使う機会が減ってしまう。これに対して、イヌノフグリの花粉がオオイヌノフグリの雌しべに付いた場合、花粉管の半分以上はブロックされ、胚珠は半分は無事であるという。なので世代を重ねるごとにイヌノフグリは絶滅に追いやられていく。
 ウィキペディアのリンク先によれば、こうした繁殖干渉の事例としては、
  • タンポポ属における外来種から在来種への置き換わり【←「在来種から外来種」の誤記?】
  • オナモミ属における外来種2種の生育環境分化
  • ゲンノショウコとミツバフウロの棲み分け
  • アズキゾウムシとヨツモンマメゾウムシ
などがあるという【こちらに総説論文あり】。

 一般に、植物でも動物でもあるいはもしかすると人間界でも、近縁と遠縁では、近縁のほうが競争が起こりやすく、他者を排斥しやすい傾向があるかもしれない。これは、近縁のほうが生息環境が似ており資源の奪い合い、縄張り争いが起こりやすいからである。人間界で言えば、職業の異なる他人同士での争いは起こりにくいが、一族や家元をめぐる争いは簡単には終わらない。但しこれらは、繁殖干渉とは異なる仕組である。

 番組の終わりのほうでは、伝統工芸と絶滅危惧種の話題が取り上げられた。

●「生き物の場合は経済効率だけ。どれだけ子孫を残すかで決まってしまう。子孫を残せないと駆逐されてしまう」という特徴があるが、伝統工芸の場合は、使ってくれる人がいれば細々とでも残る。

という話のあと、「続けること」と「できること」の違いが強調された。又吉さんが「何かをやり始めたらできるようになったと、やり続けることは違う。中学の時サッカーがうまくてあのまま続けていたら日本代表になれたという人がいるが、仮になれたとしても、続けたということとは全然違う」というような話をされていたが、まことにその通りである。そう言えば、このWeb日記も、まもなく執筆開始から23年となる。人様に読んでもらうような内容ではないし、加齢とともに文章力もますます衰退しているが、それでも執筆を続けるということは、人気ブログを数年程度続けて止めてしまうこととは違う。Web日記(あるいはブログ)が書けるということと、それを続けるということは全く別である。

 番組の最後のところでは、解説者の塚谷先生から、
発達段階を経ていろいろな生物になったのは、生物が多様化する仕組を持っていたから。私たち人間が多様性を大事と思うのは本能的なものかもしれない。もし変化させなかったら、いまだに僕らはいなくて、アメーバのような存在だったかもしれない。多様性が根源にあって、多様性を減らす方向に働くものには本能的に危ないものを感じる。絶滅していくということはその多様性を減らすことでもある。
というようなまとめの言葉があった。興味深いのは、蚊を絶滅させてよいかという話。人間にとって蚊の存在は有害なばかりで何の役にも立たないが、それでも蚊を食べる動物もいるので、生態系を壊す恐れがあり、うかつにやってしまってよいかどうかは分からないという。
 又吉さんのほうからも、自分と異なる好みを持つこと自体を尊重すること、但し、その人の好みに合わせる必要はないというような趣味や好みについての多様性についての言及があり【←あくまで長谷川の理解】、これもその通りだと思った。

 いま、新型コロナウイルスの感染拡大が問題となっているが、当該のウイルスが終息しても、おそらく、10年単位、あるいはひょっとして数年単位で、新々型、新々々型、...というように次々と未知のウイルスが出現する恐れがある。その際、消毒、隔離、ワクチン、免疫という既存の対抗手段だけでは人類を救うことはできないかもしれないが、人種やDNDタイプ、生活様式が多様化していれば、その中から生き残れる人々が出てくるはずだ。少々話が飛躍したが、今回の新型コロナウイルスは、価値観や好みの平板化により同じ場所にたくさんの人が集まりやすいという、グローバル社会への警鐘であるとも言えるだろう。