じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 5月4日の楽天版に掲載したように、岡大・東西通りのヒラドツツジが見頃となっている。ヒラドツツジは、東西通りのすぐ北側を流れる座主川沿いにも植えられているが、最近は殆ど花が咲かない。原因は、南側の樹木が茂りすぎて日当たりが悪くなったせいではないかと考えられる。
 写真はこのWeb日記の執筆を始めた1997年5月(左の列)と2020年5月(右の列)の比較写真。右上の岡大西門付近を除いて、殆ど開花していない。なお、左右の写真は同一場所の対比ではない。またツツジは座主川の北側(右岸)沿いに植えられているので、いずれの写真においても、ツツジから座主川の向きが南方向となる。

2020年5月06日(水)



【小さな話題】「じぶん更新日記」執筆開始23周年(1)人に読まれないWeb日記をなぜ書き続けるのか?

 このWeb日記の執筆が2020年5月6日をもって23周年を迎えた。昨年一昨年に記した通りで、このWeb日記はブログではなく、あくまで日記である。なぜ書き続けているのか、その要点は、以下の5点である。
  1. 軽い意味で、情報提供や情報共有をめざす
  2. 公言することで、主張内容に一定の責任を持つ
  3. 読者の方々との交流はめざしていない
  4. (旅行期間などを除き)原則として毎日執筆する
  5. 日本語を忘れないために重要

 行動分析学的に見れば、なぜ書き続けているのかという理由は、執筆行動が何によって強化されているのか、という形にも言い換えることができる。上記の1.から5.を、「行動の結果」という観点から書き換えてみると、
  1. 新しく知ったことなどを書きとめておくことで、後日その知識を活用することができる。引用元もたどりやすい。
  2. Webで公開するとなれば、それなりに首尾一貫した議論を展開しようと努力する。(←だからといって、主張内容がすべて首尾一貫しているわけではない。対立点を併記し、結論を保留するという場合もある)
  3. アクセス数は全く気にしていない(カウンターはつけているが殆どチェックしていない)。このWeb日記にも何度か書いたことがあるが、アクセス数とか「投票」などに参加すると、知らぬうちにそういう結果に影響されてしまい、本当に書きたいことが書けなくなる恐れがある。また、他人様に読んでもらおうとすると、細かい言い回しまで気にかけるようになり、結果的に日記(あるいはブログ)執筆に多大な時間を費やすようになる。プロの作家、評論家を別とすれば、そういう執筆行動は決して長続きしない。
  4. 毎日同じ時間帯(私の場合は、主として朝の6時から8時頃)に執筆することで、規則的な生活を送ることができる。
  5. 定年退職後は隠居生活を続けているため、妻を除いて、殆ど話をする相手が居ない(但し、特命教授として4学期に限り講義を担当している)。何かを書かないと、ホンマに日本語を忘れてしまいそうになる。

 ということでこのWeb日記はきわめて自分本位な備忘録に過ぎない。ま、私がそれなりに健康寿命を延ばし、認知症にならず、PPK型の死を迎えることができたとしたら、「執筆行動は健康増進に役立つ」というエビデンスの1つとしてお役に立つことがあるかもしれない。




 ところで、ここ数ヶ月、このWeb日記の執筆内容には大きな変化が生じている。言うまでもなく、新型コロナウイルスに関する話題一色になってしまったことである。リンク先にまとめてあるように、2月下旬以降は、ほぼ連日のようにこの話題を取り上げている。

 もし新型コロナウイルスの騒動が無かったら、この時期、私はいったい何に関心を持っていただろうか、代わりにどういうテーマをWeb日記で取り上げていただろうか、と時々思うことがある。

 私の関心対象はもともときわめて限られており、例えば、芸能人が何か悪さをして逮捕されたとか、野球やサッカーの試合結果がどうなったとか、新しいスマホが発売されたとか、そういった世間の出来事は私にとってはどうでもよいことであった(←20年前ならもう少し関心対象が広かったが)。

 しかし、新型コロナウイルスの問題ばかりはどうにも無視できない。最近は、朝昼晩少なくとも3回は、NHKなどのニュースサイトにアクセスして、興味のある記事は、備忘録代わりに自分のツイッターにリツイートしている。
 なぜ、新型コロナウイルス問題に強い関心を持つのか? これはもちろん、私や家族の健康にとって深刻な危機であるという点にもかかわっているが、もっと重要なのは、これをきっかけとして、人類の生活様式が大きく変わる可能性があるという点だ。この「生活様式」というのは、今回、例示されたような「新しい生活様式」というような応急的、短期的な行動変容にかかわるものでは全然ない。多くの人が集まって共同作業をするとか、人に寄り添うとか、談笑しながらくつろぐといった、人類の基本的な生き方そのものが、これまでと同じには戻らないだろうということである。もちろん、今回のコロナ自体は間もなく収束するだろうが、この先、ウイルスが変異し、グローバル社会のもとでさらに強烈な感染症が蔓延する恐れが常にある。新しいウイルスが出現するたびに即座にDNAが解析され、それに見合ったワクチンが自動的に製造できるようになるというなら話は別だが、そうでない限りは、社会全体を感染が広がりにくいように変えていかなければならず、当然、それに合わせて、私の隠居人的生活や終活のスタイルも根本からそれに合わせて行く必要がある。私がもし20〜30年ほど早く生まれていて、新型コロナウイルスを知らずにこの世を去っていたとしたら、それはそれで良かったと思う。しかし、人類にはもっと別の世界がありうるということに気づかされたという点では、ポスト・コロナまで生き延びることには大きな意義があるようにも思える。