じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 6月28日の岡山は深夜に雨が止みその後は「曇りのち晴れ」の予報となっていたが、実際には朝7時過ぎに空が暗くなり、短時間ながら強い雨が降った。
 雨雲レーダーを見ると、どうやら、円盤形の雲が岡山市中心部を通過した模様で、雨が降った地域はきわめて限られていることが分かった。


2020年6月28日(日)



【連載】又吉直樹のヘウレーカ!「離れていても心は通じ合えますか?」(3)バーチャルリアリティを活用した交流技術

 昨日に続いて、6月17日に放送された、

又吉直樹のヘウレーカ!:「離れていても心は通じ合えますか?」

についての感想と考察。今回が最終回。

 番組の終わりのところでは、バーチャルリアリティ(VR)を活用した交流技術が紹介された。参加者は専用ゴーグルやコントローラーを装着し、VR環境内の登場人物として行動する。VR空間自体は単純なイラスト程度だが、参加者はかなりの現実感を味わうことができる。
 これは、行動分析学的に言えば、現実感は、物理的な解像度や現実の模倣によって決まるのではなく、その空間でどれだけ能動的に振る舞えるか(その空間で「行動」することに対して結果が随伴するかどうか)によって決まってくるということだろう。私自身も、息子が小学校低学年の頃にスーパーファミコンのRPGに熱中したことがあったが、当時の画像は登場するキャラも風景もシンプルなものでそれ自体は現実感に乏しいものであった。にもかかわらず現実世界に匹敵するような達成感、わくわく感が得られたのは、自分自身がその世界に関与し、能動的にかかわっていくことができた(と錯覚した)ためであった。

 番組ではさらに「アバター×出会い」の試みが紹介されていた。参加者はそれぞれ自分の好みのアバターを選ぶ。参加者は、Trioと名づけられたのどかな村で交流する。こうしたツールによって、参加者は、現実の外観や経歴に囚われない別の「自分」として他者と交流できる可能性がある。

 このツールをうまく活用すれば、こんなこともできるかもしれない。
  • 幼なじみと60年ぶりに再会したとする。現実には、おじいちゃんおばあちゃんばかりの集まりになってしまって大した話題も出てこないが、VR空間で男の子、女の子として交流すれば当時のワクワク感を味わえるかもしれない。
  • 結婚後に配偶者以外と交際すると、すぐに浮気だとか不倫だとか言われて批判されるが、VR空間での限定的な交際であれば許容されるであろう。それによって、夫婦関係以外の多様な異性間の交流ができるようになる(もっともそれによって離婚が起こりやすくなるかもしれないが)。
  • 現実の人間ばかりでなく、AIで再現された過去の有名人とも交流できるかもしれない。
 なお、番組で紹介されたツールでは、容姿はアバターだが、音声は地声のままであったようだ。自分の声もいろいろに変えられるとさらに変身できるかもしれない。

 このような可能性について考えを進めていくと、そもそも現実世界とは何か、仮想現実とはどこが違うのか、さらには、なぜ我々は、仮想ではなく現実に生きなければならないのか、という根本問題が生じてくる。「行動し、強化される」という行動随伴性が保証されているなら、現実に生きていても、仮想世界にのめり込んでいても、どっちでもエエじゃないかという発想も出てくるかも知れない。実際、宗教というのは、教義によって構成された仮想世界から現実を捉え直そうとしているようなものであって、コンピュータだけがVRというわけではあるまい。

 では現実は仮想とどこが違うのか? おそらく「現実」には、「リアリティ」と呼ばれるような「現実感」という側面と、自分の力では決して変えることのできない「現実的制約」という側面があるように思われる。
 仮想空間であっても、「現実感」は、かなりの程度で体験できる。これは上に述べた行動随伴性に依存している。
 いっぽう、「現実的制約」というのは、例えば、
  • 「自分」についての連続性。例えば殺人犯人が翌日から善良市民に変身することはできない。
  • 時間の流れを止めたり過去に戻ったりすることはできない。
  • 社会的な制約。他者のモノを奪ったり他者を傷つければ制裁を受ける。
  • 人は必ず死ぬ。
といったようなものであり、もしそういった制約が完璧に除かれたとしたら、現実世界と仮想空間を隔てるものは何も無くなるはずである。

 仮想空間に没頭することは現実からの逃避に過ぎないと批判する向きもあるが、そもそも、他者との交流というのは、現実のありのままの姿ではありえない。お互いに気を遣うということは、それなりに自分を飾って、相手に良い印象を与えるように振る舞うことである。

 現実を受け入れた上で、それに合った最善の生き方をさぐるほうがいいのか? それとも、現実のいくつかの側面を遮断して、長所となるような良い面だけを発せられるような仮想空間に参加したほうがいいのか? このあたりも考える必要がある。

 今回紹介された「アバター×出会い」を視て真っ先に浮かんだのが、SFテレビドラマの宇宙大作戦の中の、「タロス星の幻怪人」のエピソードであった。登場するパイク大佐は、事故のため、四肢を失い、箱形の車椅子のような装置の中でかろうじて生きながらえる体になっていた。いっぽう、タロス星には、Vinaという地球人女性が生き残っていたが、事故で重傷を負って不自由な体になっていたというような話。この2人にとっては、おそらく、タロス星のバーチャルな空間で一緒に暮らすことが生きがいになるようにも思われた。