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7月1日夕方の岡山はよく晴れ、旧・京山タワーが西日を浴びて光っていた。このほか、朝日を浴びて光る光景も眺めることができる。かつて観覧車があった時は光の輪が見えたこともあった。 |
【小さな話題】「自分を遺す終活」ではなく「自分を埋める終活」 2020年も月単位では残り半分となった【但し、日にち単位では、閏年の場合は7月1日24時、平年の場合は7月2日の正午)】。現職時代は年度単位で生活していたため、「1年の始まりは4月1日」という感覚が強かったが、定年退職から2年以上が経過し、「1年の始まりは元日」という生活サイクルがしだいに定着しつつある。 とはいえ4月1日に「新年度の所感」を書いたばかりでもあり、まだまだ、7月1日が2020年後半の始まりであるという実感はわかない。 定年退職後は相変わらず、毎日1時間程度、身辺整理作業を続けている。4月1日に挙げたリストのその後の進捗状況は以下のようになっている。
中学・高校・大学の頃に書いていた日記を残さなかったのは、別段、過去の思い出を消し去って心機一転、生まれ変わろうなどと思ったからではない。今後の人生に役立てる上での資料的価値が無いし、私のような凡人を伝記にするような奇特な人が出てこない限り伝記資料として役立てる価値も無いと判断したからである。 私費で購入した専門書は、希少本や修論・博論でお世話になった一部の本を除いて、大部分を資源ゴミに出した。これらも「今後の人生に役立てる上で必要かどうか」という基準で判断した。 これらの「身辺整理」は「終活」の一環である。このことで最近、「自分を遺す終活」ではなく「自分を埋める終活」という考えを持つようになった。「自分を遺す」というのは、自分の業績目録とか、思い出の品を子孫に遺すという考え方であるが、そもそも子孫たちがそういうモノを望んでいるわけではない。そういうモノはすべて一代限りで価値をもつものに過ぎない。 では「自分を遺す」のではなく「自分を消す」という選択肢はどうか。ここでいう「自分を消す」というのは、別段自爆することではない。自分が生きていたという痕跡をできるだけ消しながら隠遁を目ざすことである。離脱理論型の人生観から言えばこういう選択もアリかとは思うが、自分は別段、大悪人でもない、そこまで自分を消さなくてもいいだろうという気もする。 ちなみに最も優れた「離脱理論」というのは、それがあったとしても一代限り、決して後世に残らないような理論体系である。『離脱理論のススメ』などという本を出して大儲けするような人が居たとしてもそれは偽善者。本当に本の中身を実践する人は、そもそも本を出そうとはしない。 では「自分を消す」ではなく「自分を埋める」というのはどういうことか。それは、ことさらに「自分」を主張せず、社会の渦の中に自分を埋めていくというようなものだ。害悪をもたらすものであってはならないが、かといって積極的に貢献をめざすものでもない。ま、まだまだアイデアの域を出ないところもあり、これでいいのかどうかは引き続き考えていくことにしたい。 |