【連載】又吉直樹のヘウレーカ!「不便ってそんなに悪いもの?」(5)不便益と自然随伴性
昨日に続いて、7月29日初回放送の、
「又吉直樹のヘウレーカ!「不便ってそんなに悪いもの?」
についての感想と考察。今回で最終回。
番組の終わりのほうでは、不便益の事例として、
- マニュアル車はオートマ車に比べて、操作が複雑といった不便があるが、そのいっぽう、車の構造(対象系理解←番組では「対称系」となっていたが誤植と思われる)や安心感が得られる。
- 自動運転の技術が進んでいくと、「自動でやってあげます」が「手動でやらせてくれない」時代になるかもしれない。運転の楽しみが奪われる。
- ある幼稚園では園庭を敢えてデコボコに設計。子どもたちは転ばないように走り方を工夫する。その工夫がもっと登ったり下ったりしたいという欲求を駆り立てている。「工夫できる」「主体性が持てる(=工夫から生まれる遊びへの主体性)」
- 同じくその幼稚園では、手を洗う蛇口をセンサー式ではなく手でひねるタイプを採用。これにより「蛇口をひねると水が出る」という物理現象を学ぶことができる。
- ある国内屈指のIT関連会社では、デスクをジグザグに設置。いちいち人を避けて通らなくてはならないが、これにより何気ないコミュニケーションが2倍に増加。予期しない接触により「(互いを知る)発見のチャンスが生まれる」、「社内での交流に主体性がもたらされる」
などが挙げられていた。「不便益は手間そのものに価値を見出す」ことの意義も強調されていた。
ここからは私の感想になるが、さまざまな工業デザインや、教育現場において、不便益を取り入れた設計を促すという点で、「不便益理論」は大いに意義があるとは思った。しかし、その理想とする方向を、「不便vs便利」という枠組みでうまく整理できるのかどうかについてはイマイチ分からないところもあった。
- 上記の幼稚園での「園庭のデコボコ」、「ひねる蛇口」、「ジグザグなデスク配置」などは、素朴に考えてそんなに不便であるとは思えない。「園庭のデコボコ」は「不便」という枠組みよりは「豊富な遊びの環境」という視点で捉えるほうが生産的であるように思う。
- 「ひねる蛇口」では、「蛇口をひねると水が出る」という物理現象が理解できることを不便益としていたが、もっと重要なことは、「自分の行動の結果として水が出る」そして「自分の行動の結果として水を止める」、というように、オペランダムへの関与、そして行動と結果という随伴性によってちゃんと強化されることにある。そう言えば、以前、児童公園の手洗い場で、どこかの子どもが水を出しっぱなしにして遊び場に戻る、私が蛇口を閉めてやると、しばらくして、また洗い場にやってきた子どもが水を出しっぱなしにするというイタチごっこになったことがあった。普段からセンサー蛇口に慣れている子どもは、ひょっとして蛇口を締めるという行動が条件づけられていないのかと思ったことがあった。
自動ドアの影響は、20歳代の学生にも及んでいるかもしれない。私の授業では、試験の時に答案を早く書き上げた学生は、試験時間中でも退室してよいとしている。ところが、教室から出て行く時にドアをちゃんと閉めない学生が少なからずいる。これまた、自動ドアに慣れすぎていて、ドアを閉めるという行動がちゃんと強化されていないのではないかと思ってみたりする。
- 「ジグザグなデスク配置」というのも、どこまで移動に不便なのかは分からない。「不便に設計したことによってもたらされる益」というより、単に「コミュニケーションを増やすために設計した配置」と考えてもそれほど変わらないように思えた。
番組の初めのほうで挙げられていた「素数ものさし」も、普通のものさしに比べてそれほど不便というわけではないだろう。人気商品になったのは、不便益が求められたというより、パズル商品としての人気ではないだろうか。
「エスカレーターではなく自分の足で富士山に登る」とか「自宅から駅に向かうときに、車で最短の移動をするのではなく、遠回りしながら、途中の花や新しいお店や富士山の眺望を楽しむ」という選択も、不便益の効用という枠組みで捉えるのが最も有用であるかどうかは分からない。行動分析学から言えば、これらは自然随伴性にかかわる強化子(好子)と言える【詳しくは長谷川版の第3章その1を参照されたい】。
要するに、日常生活行動は、通常、複数の強化子(好子)によって強化されている。そのうち報酬や(動物実験での)餌は付加的な強化子(好子)と言われるが、オペラント強化というのは、何も馬の鼻先にニンジンをぶら下げて馬を走らせたり、豚をおだてて木に登らせる、子どもを飴玉で習慣づけるといった付加的な強化随伴性だけに限られるものではない。これら人為的な随伴性とは別に、ウォーキング途中に眺める草花、ジョギングすること自体の筋肉感覚、パズルが解けたという結果なども、人間にとってはきわめて有効な強化子(好子)となっている。なので、「不便益を見つけて大切にしていこう」という発想は、「付加的強化随伴性だけでなく、自然随伴性にも注目し大切にしていこう」という発想にそのまま置き換えることができる。
このほか、「手間をかける」行動の中に、付加的な強化子(好子)を組み合わせて随伴させるということも可能である【スポーツやゲーム、流儀など】。
ま、随伴性に基づく行動の分析も、「不便益」というアプローチも、あくまで人間が発明した行動分析のツールの1つであって、どちらが正しいとか間違っているというわけではない。どちらがどれだけ有用で、応用の範囲を広げることができるかにかかっているのではないかと思われる。
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