じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 気象庁の台風10号の進路予想は、9月2日朝の時点では九州西部を直撃し、対馬を通過して朝鮮半島に向かうと予想されていたが、9月3日の予想では、九州の西を通過して、対馬とチェジュ島の間を通って朝鮮半島に向かう予想に修正された【9月2日の日記参照】。
 しかし直近の9月5日朝の予想では、またまた東寄りに修正され、長崎付近から対馬、朝鮮半島東部をかすめる進路となった。この微妙な差が九州本土での暴風、大雨災害を引き起こさないことを祈る。

2020年9月4日(金)



【小さな話題】段ボール工場作業員から日本国総理大臣へ?

 安倍総理の辞任表明を受けて、自民党で総裁選挙が行われている。立候補しておられるのは、菅官房長官、岸田政務調査会長、石破元幹事長の3氏であるが、その中では5つの派閥などから支持を得て国会議員票で優位に立つ菅官房長官が圧倒的に優位であるとされている。現在の議席からみて、次の自民党総裁は総理大臣となることが決定的であり、日頃、政治にはあまり関心を持たない私にとっても注視せざるを得ないところがある。ということで、菅官房長官についてウィキペディアの該当項目を紐解いてみた。リンク先には個人情報が満載されているが、公人でもあり、まして総理大臣になりそうな方であることから、記載内容を引用してあれこれ感想を述べても特に問題は無かろうと思う。

 まず、苗字であるが、私は「菅」という苗字を見ると、どうしても「かん」と読んでしまう。これは、菅直人元・総理と同じ文字であること、また菅原道真のことを「菅公(かんこう)」と呼んだり、それに由来した学生服ブランドの本社が岡山にあることに影響していると思われる。もちろんテレビで何度もおみかけするので「菅官房長官」のことを「かんかんぼうちょうかん」と読むことはないが、私の場合は、頭の中で、まず「菅」を「かん」と音韻化してから「すが」に翻訳するという処理が行われているように感じる。
 また失礼ながら「義偉」というお名前は最近まで何と読むのか知らなかった。また、一度覚えてもすぐ忘れてしまう。

 さて、ウィキペディアの生い立ちのところを抜粋させていただくと、以下のようになる。
  1. 秋田県雄勝郡秋ノ宮村(後の雄勝町、現、湯沢市秋ノ宮)中央部旧国道沿いに家があった農家に長男として生まれる。
  2. 中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、「フライデー」から「特に目立った成績ではなく、姉が進学した北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時教員にだけはなりたくないと考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。
  3. 父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後、集団就職で上京する。「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感する。
  4. 上京から2年後、築地市場でアルバイトをしながら、当時、私立大学の中で一番学費が安かったという理由で法政大学第二部法学部政治学科へ進学する
 政治家、特に大臣クラスの大物政治家というと、たいがいは、エリート官僚か、二世議員が思い浮かぶが、上掲の記述を見る限り、菅氏はそのどちらにも該当しないようである。前職の項目にも「段ボール工場作業員→建電設備株式会社社員」などと記されており、上流家庭のお坊ちゃんとは全く違った経歴をお持ちのように見えた。

 もちろん今の日本には職業差別や身分差別はない(賃金格差はあるが)。なので、段ボール工場作業員であった人が一国の総理大臣になっても何の不思議もないのだが、現実にはその可能性は極めて小さいはずだ。というのは日本の保守政治は伝統的に派閥の離合集散の中で維持されており、その頂点に立てる人は、政界や財界に強い影響力を及ぼせる人に限られていた。これに該当するのは、やはりエリート官僚出身者か、大物政治家の二世が中心であった。

 ではなぜ菅義偉氏は、官房長官、そして(現時点で)自民党総裁の最有力候補まで上り詰めることができたのだろうか。

 まず家系的には、父親の菅和三郎氏も雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任したというから、政治と無縁の生い立ちというわけではなかったようだ。ウィキペディアによると、政治家としての道は、以下のようになっていた【長谷川による抜粋、一部省略や改変あり】。
  1. 1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介され、自由民主党で同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。以後11年にわたり秘書を務めた。
  2. 1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める。
  3. 1987年、神奈川県の横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた。
  4. 1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自民党公認で出馬し、新進党公認・公明推薦の上田晃弘、旧民主党公認の新人大出彰らを破り、初当選した。
  5. 竹中平蔵総務大臣の下、総務副大臣(情報通信、郵政担当)として総務省内部統制のトップを任され、事実上人事権なども行使した。
  6. 2007年に発覚した年金記録問題では、厚生労働大臣の柳澤伯夫を差し置き、総務【副?】大臣の菅が検証を担当した。
  7. 2006年、再チャレンジ支援議員連盟の立ち上げに参加。この議連は実質、ポスト小泉を選出する2006年自由民主党総裁選挙に、安倍晋三を擁立する原動力になった。結果、総裁選で安倍は勝利する。同年9月に発足した第1次安倍内閣では当選わずか4回で総務大臣(郵政民営化担当大臣を兼務)に任命され、初入閣する。
  8. 2007年、第21回参議院議員通常選挙敗北を受けた内閣改造では、安倍は菅の内閣官房長官(次善案として内閣官房副長官)起用を模索したが、直前に菅に事務所費問題が発覚して実現せず、自民党選挙対策総局長に就任した。菅は就任早々「私の仕事は首を切ること」と発言し、候補者の大幅な調整を示唆した。
  9. 2007年9月、安倍の首相退陣に伴い行われた2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持する宏池会の方針に反して麻生太郎を支持し、推薦人にも名前を連ねた。福田政権の下で、選挙対策総局長を格上げした選挙対策委員長に古賀誠が就任すると、古賀に手腕を買われ、同副委員長として引続き衆院選対策にあたることになった。
  10. 麻生内閣発足後は麻生の側近として低支持率にあえぐ政権を支え、中川秀直や塩崎恭久ら党内の反麻生派を硬軟取り混ぜた様々な手段で抑えた。また、積極的な政策提言を行い、政府紙幣や無利子国債発行、世襲制限を唱えた。
  11. 2009年7月、古賀が東京都議会議員選挙敗北の責任を取る形で辞任。麻生の解散予告後だったこともあり、選対委員長代理として総選挙を取り仕切ることになる。
  12. 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川2区で民主党の三村和也の猛追を受けるも548票の僅差で三村を破り、5選(三村は比例復活。)。2009年自由民主党総裁選挙において、96年当選同期の大村や新藤義孝・松本純と共に河野太郎の推薦人になるとともに、宏池会を退会した。
  13. 2012年4月、郵政民営化法改正案の採決で、賛成する党の方針に反して反対した。
  14. 2012年自由民主党総裁選挙に先立ち、甘利明に呼びかけて安倍晋三の総裁復帰を画策し、麻生太郎を引き入れて安倍を返り咲きさせた。
  15. 2012年12月、第2次安倍内閣の発足に伴い、内閣官房長官に任命される。
  16. 2014年5月、内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた杉田和博に代わり加藤勝信を任命したとされる。元内閣参事官の高橋洋一によると、局長人事を機に官僚を統制下に置き「歴代官房長官の中でも屈指の情報収集能力」を持つようになったという。
などと波乱万丈の経歴をお持ちのようだ。50年後くらいにはNHKの大河ドラマ(←50年後も存続していれば、の話だが)、「令和の英雄」の主人公になりそうな気もする。

 このほか、エピソードのところには、
酒は飲まず(いわゆる下戸)、タバコも吸わない。朝に身体を動かしたり、情報収集したり、様々な人を会ったりする「朝活」を日課としている。平日は午前5時頃に起床し、柔軟運動や100回の腹筋運動の後、新聞朝刊各紙や『NHKニュースおはよう日本』で見たニュースを整理しながら、東京・赤坂の議員宿舎から40分ほど散歩をしつつ、総理大臣官邸近くのホテルに向かう。ここで野菜、果物、ヨーグルトドリンクなど一汁一菜の軽い朝食をとりつつ、政治家や官僚、企業人らと話して世間の動きなどを情報収集する。外国人材の受け入れ拡大を図る出入国管理及び難民認定法改正に向け動いたのも、この場で介護業界の深刻な人手不足を聞いたことがきっかけであった。
と記されており、「酒は飲まず、タバコも吸わない」、「午前5時頃起床」、「ヨーグルトドリンク」などは私と全く同じであった。但し、私の腹筋回数は30回であって、菅氏の100回には及ばない。
 なおこちらの情報によると、菅氏の英語力は「判定不能」とされていた(安倍晋三氏は75点、岸田文雄氏は70点、石破茂氏は10点)。

 ということで、ウィキペディアの記載内容だけからの推測になるが、段ボール工場作業員から官房長官、そして次期総理大臣最有力候補となる道筋には、その時々の「運」も味方してくれたが、基本は、卓越した人を見る目と人脈の活用能力が働いていたように拝察される。

 菅義偉氏は長年、秘書や官房長官を歴任されており、ナンバー2としての能力が抜群であることはすでに実証されていると言える。しかし、私の好きなTVドラマ宇宙大作戦スポックが、カーク船長を支える副官としては有能であったのに、カーク船長の代理で船長を任されるようになるとリーダーシップをうまく発揮できないという事例もある(あくまでフィクションではあるが)。菅義偉の場合も、御自身のオリジナルの政策立案、遂行能力についてはまだまだ未知数であり、また、日本がきわめて重大・深刻な事態(近隣国との武力衝突、大災害など)に陥った時に、適確なリーダーシップを発揮できるのかどうかも分からない。ま、人脈活用に秀でた方であるので、有能な側近を揃えれば何とか乗り切っていけそうな気もするが。