じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山植物園には、地元特産の万成石(まんなりいし)で作られたベンチがある。表面がツルツルに磨かれているため、かすかではあるが、空や樹木の枝が映っている。【ベンチの表面の黒い筋は岩の割れ目ではなく、後ろのソメイヨシノの枝が映っているもの】

2020年10月28日(水)



【連載】「刺激、操作、機能、条件、要因、文脈」をどう区別するか?(33)1991年のHayes論文(4)「妥当性」をめぐる私見

 昨日に続いて、

Hayes, S. C. (1991). The limits of technological talk. Journal of Applied Behavior Analysis, 24, 417-420.

についての考察。

 昨日の日記で、Hayes(1991)や機能的文脈主義が重視する「正確さ」と「広さ」と、心理学その他の分野でしばしば議論される「内的妥当性」、「信頼性」、「外的妥当性」の類似性にふれた。
 確かに、それぞれの対応する概念に共通性はあるが、そもそもの由来や哲学的背景はかなり異なっているようである。
 ここからは全くの私見であり間違っているかもしれないが、「内的妥当性」、「信頼性」、「外的妥当性」といった概念は、『世界仮説』でいうところの「機械主義」に由来している。武藤(2011)によれば、機械主義の真理基準は「言語構成体(いわゆる「理論」)とその構成体によって示唆される新しい事実との一致」であるという。「妥当性」という概念はおそらくその真理基準に由来するものであろう。いっぽう、機能的文脈主義の真理基準は、
.....その恣意的なゴールが達成されたか否か」(successful working) ということとなる。もし,そのゴールを「事象に対する予測と影響」(prediction and influence) とした場合には,文脈主義が持っている「ゴールを達成する」という実用的な発想から,機械主義的な理論を採用する場合も考えられる。ただし,その場合に注意が必要なのは,そのような選択は,あくまでもそのゴール達成のための手段にすぎない,ということである。【武藤, 2011, 7頁】
とされている。
 あくまで私見であるが、各種の妥当性概念(「構成概念妥当性」、「内容的妥当性」、「基準関連妥当性」、「外的妥当性」など)は機械主義の真理基準に由来するものであり、機能的文脈主義が重視する「正確さ」と「広さ」と共通部分はあるものの、用語体系の枠組みは根本的に異なるようである。
 とはいえ、修論や博論の審査や、学術誌への投稿論文の査読は、機能的文脈主義者だけが集まって行うわけではないので、上記を含めた多様な視点から評価されることになる。
 なお、上記の各種妥当性概念の分類についても種々の議論があり、私が定年退職した頃にも、「従来の○○妥当性といった分類は古くさい」という批判を耳にしたこともあるが、批判の根拠が何であったのかは忘れてしまった。

 ちなみに、行動分析学は一貫して構成概念を排除してきたが、構成概念妥当性にかかわる技術的な手法は、メタ分析などに活かされているようにも思われる。

 ところで、昨日の日記でも述べたように、Hayes(1991)は、科学的な成果とは言語的構成物である、科学者とは言葉を作る人(word makers)であると主張しているが、初学者の中には、言葉の類似性から、「言語的構成物とは構成概念のことか?」と勘違いする人も出てくるのではないかと思われる。行動分析学が構成概念を排除しているのは、「予測と影響」という真理基準やオッカムの剃刀という点から見て、それが冗長であり、不毛な議論を招くからというのが1つの理由になっていると思うが、それだけであるなら、この先、あらゆる構成概念を排除し続けるべきだという主張には繋がらない。また、そもそも「関係フレーム」自体が構成概念ではないかというような批判もどこかであったと記憶している。このあたりで考えを巡らすことは、隠居人にとっては大いに楽しみでもある。

 あと、単一事例実験計画における内的妥当性と外的妥当性をめぐる議論もあったと思うが、これも、「文脈」をどうとらえるのかによって扱いが変わってくるように思う。

 不定期ながら次回に続く。