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毎朝、起床時に東の空を眺めているが、このところ、曇り、もしくは晴れていても東の地平線付近に雲がかかることが多く、3月5日頃の水星と木星の接近を観察することもできなかった。 3月9日の空は比較的よく晴れ、薄雲越しに月齢25.1の月が見えていたが、東の空の木星や水星のあたりには雲がかかっていた。 |
【小さな話題】コズミックフロント☆NEXT「惑星探査の先駆け“ひてん”波乱万丈の軌跡」 3月4日に放送された「惑星探査機の先駆け“ひてん”波乱万丈の軌跡」を録画・再生で視た。 ひてんは、1990年1月24日に打ち上げられ、1990年3月19日、月面への到達によって運用を完了した工学実験衛星であるが、1990年当時、そのような実験が行われたことは全く知らず、当時のアルバムを見ても、子どもたちと雪遊びをしたり豆まきをしたりする写真が残っているのみで、別世界の出来事であった。今回の番組を通じて、この工学実験衛星の経験が、後の国産探査衛星や、サンプルリターンミッションの礎を築いていたことがよく分かった。 今回の番組では、このプロジェクトの中心人物、上杉邦憲さん、川口淳一郎さん、林友直さん、ほかの活躍が紹介されていた。 番組の後半のところで初めて紹介されたように、上杉さんは、上杉隆憲・敏子夫妻の長男で、旧米沢藩主上杉家の17代当主にあたる。番組では米沢藩第9代藩主の上杉鷹山の、 ●なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり が、ひてんプロジェクトの支えになっていたこと、また上杉鷹山は、ケネディ大統領からも敬愛されており、アポロ計画のきっかけにもなっていたというからスゴい。 川口淳一郎さんと言えばはやぶさであまりにも有名であり、この日記でも2011年7月12日、および翌日以降の連載ほかで取り上げさせていただいたことがあった。今回の番組では、この、ひてんプロジェクトにおいても、川口さんの緻密な軌道計算やバックアップ方略が、ひてんの窮地を救ったことが紹介されていた。番組によれば、ひてんは、第4段ロケットの不備により、計画の高度50万kmに達せず29万kmにとどまってしまったが、川口さんは、当初の4周半を5周半に増やすというバックアップ案を提案し、窮地を切り抜けることができた。このことについて、川口さんは、バックアップ案は、トラブル発生時に思いついたものではなく、当初から予定されていた調整の手順の1つであると説明しておられた。スイングバイの成功についても、「スイングバイ自体は、最後の軌道修正を終わるともう答えが出ていて、そのまま何をしなくてもちゃんとスイングする、結果が正しいことが分かっているので、その瞬間は別に驚くことはない」と述べておられた。さすが川口さん。スイングバイができるかどうかは、それ以前の軌道の微調整の成否にかかっており、そこさえうまく操作できれば、結果部分は必然であると、冷静に受け止めておられた。 もうお一人の林友直さんは、打ち上げ当時のトラブル(補助ブースターの電源不良)にも携わったほか、エアロブレーキ実験で発生する高熱に対処するため、手作業で、チラノ繊維という耐熱剤の糸を一本一本間引いて、ひてん用に加工した。林さんのアイデアと手先の器用さが実験の成功に大きく貢献した。 というような内容であったが、いろいろと学ぶことが多い番組であった。 なお、これまでの「はやぶさ」、「はやぶさ2」のプロジェクトは、一般人にも分かりやすい成果を挙げており、納税者への説明責任を果たすものであったとは思うが、この先、単にサンプルリターンを繰り返すというだけでは、一般人の関心はしだいに薄れていくだろう。学術的な意義はもちろん必要だが、見た目での分かりやすさ、例えば高画質カメラを搭載して惑星や衛星の上空や地表面の様子を中継するとか、目に見えない地場や放射線を可視化するといった形での情報提供が求められるように思う。 私自身も、死ぬまでにはぜひとも、水星、金星、火星、木星、土星、海王星あたりの、惑星や衛星の詳細画像、さらに、それらの地表面に降りたって、Googleのストリートビューのように自力で疑似散策ができるような経験をしてみたいし、それを期待することで、少しでも長生きしたいという気持ちになることができる。 |