じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 昨日の日記で、津山線・法界院駅が無人化され、みどりの窓口が廃止されたことにふれたが、そう言えば、岡大構内でも、公衆電話が撤去されるといった縮小・撤退が行われていた。写真は、文法経講義棟前にある公衆電話ボックス。いつのまにか、中の電話機が撤去されていた。
 ここの電話ボックスは、私が岡大に赴任した当時からここに設置されており、かつては、合格発表の喜びを実家に伝える時や、緊急時の連絡手段として使われていたが、スマホ全盛の時代、利用者は極端に減ったものと推測される。
 ちなみに、私自身はスマホを持っていないので、ウォーキング中に突然体調を崩したり、突然の俄雨で家に戻れなくなった時などには、この電話ボックスが唯一の連絡手段となっていた【といっても、幸い、そのような緊急事態には遭遇せずに済んだ】。電話ボックスは津島東キャンパス内にも設置されていたはずだが、今はどうなっているのだろうか。次回のウォーキング時に、回り道をして調べてみようと思う。


2021年8月31日(火)



【小さな話題】『プロジェクトX4Kリストア版』7月〜8月放送分 その2

 昨日に続いて、プロジェクトXの話題。

 まず、昨日も取り上げた、

●【7月20日放送】#033『町工場、世界へ翔ぶ 〜トランジスタラジオ・営業マンたちの闘い〜』

の続き。この回の主役のSONYは、私(1952年生まれ)が子どもの頃にはすでに有名企業になっており、ソニー坊やのキャラクターがあったことを記憶している。旧社名は「早川電機」ではなかったかと思ったが、早川電機はシャープの旧社名だった。またソニー(Sony)の商標は、長らくsunnyに由来するものと思っていたが、「音を意味する英語のSonic、およびラテン語のSon(us)と男の子(坊や)を意味する英語のSonnyに由来する。」であったことを初めて知った。さらに、井深大氏と盛田昭夫氏の関係がイマイチ分からなかったが、ウィキペディアによれば、
1945年(昭和20年)10月、井深大が東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。のちに朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流する。
1946年(昭和21年)、井深大と盛田昭夫により東京通信工業株式会社(とうきょうつうしんこうぎょう、略、東通工〈とうつうこう〉、英: Tokyo Telecommunications Engineering Corporation)として創業。
と記されていた。
 この回に取り上げられたトランジスタラジオでは、ソニーは飛躍的な発展を遂げ、MADE IN JAPANのブランドイメージアップに大いに貢献したが、その後は、家電・オーディオ製品の規格で他社との競争に勝てないという印象が強い。具体的には、ビデオカセット規格のβ、デジカメなどのメモリーに使われるメモリースティックなど。私がテザリングのために使っているVAIOのタブレットも、ソニーのパソコン事業撤退にともない別会社となった製品となっている。




 元のプロジェクトXの話題に戻るが、その翌週に放送された、

#137『われら茨の道を行く〜国産乗用車・攻防戦〜』

のほうは、トヨタの話題であった。トヨタは今なお、自動車王国ニッポンを牽引するトップメーカーであるが、1950年頃は倒産の危機にあったという。戦時中に軍用に使ったトラックは故障が多く売れず、また国産乗用車の開発については、ニッポンには乗用車など作れない、三歳児がオリンピックに出るようなものだと吊るし上げられたという。前回も述べたが、7〜8月に放送されたプロジェクトXの成功例の中で2021年現在もなおトップを維持できているのは、このトヨタと、セブンイレブンくらいのものであり、単に「なぜそのプロジェクトが成功したのか」だけでなく、「なぜその後もトップを走り続けているのか」という点で大いに興味がわく。


 次回に続く。