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岡山・西川用水は、旭川から2本の用水路で取水し、市街の中心部を流れている。このうち1本(写真左)は、JR津山線・玉柏駅の近くから取水し、備前原駅、宿本町の田畑を潤しているが、西側の山地からの雨水も流れ込むため、大雨のあとは濁りやすくなっているようだ。もう1本は、三野の浄水池付近で旭川から取水しているため、大雨が降っても直ちには濁らない。この2本の合流地点では、色の違う水が混じり合う様子を眺めることができる。 |
【小さな話題】『プロジェクトX4Kリストア版』7月〜8月放送分 その6 コンビニ(1) 昨日に続いて、プロジェクトXの話題。本日は、 ●【8月17日放送】#027『日米逆転! コンビニエンスストアーを作った素人たち』 についての備忘録と感想。 コンビニ誕生のきっかけとなったのは、イトーヨーカドーの苦戦であった。1971年頃、巨大スーパーが次々と現れ、大型デパートを凌ぐ売り上げを達成するようになっていたが、千住の洋品店からスタートしたイトーヨーカドーは資金力が乏しく、立地条件の悪い場所にしか新規出店できなかった。中には墓地の裏や畑のど真ん中などに出店するケースもあった。 店舗開発総括マネージャーだった清水秀雄は業務開発室に異動を命じられ追い込まれていた。その清水に声を掛けたのが上司の鈴木敏文であり、2人でアメリカに渡って、スーパーの実状や、新規出店の際に生じる地元とのトラブル対応について訪ね歩いた。しかしアメリカのスーパーは巨大すぎて参考にならなかった。そんなある日、長距離バスを降り立つと、目の前にコンビニエンスストアーと呼ばれた小さな商店があった。営業時間は朝7時から夜11時まで、品数は豊富、一切値引き無し、全米で4200店もあった。この会社はもともとテキサス・ダラスの氷小売店が食料品や日用品などを扱い始めたことから拡大。その成功の秘訣は詳細なマニュアルにあると言われた。2人は契約を求めたが、足もとを見られ、厳しい契約条件をのまされた。 帰国後2人は本社の役員会から冷ややかに受け止められ、日本には160万軒の小売店があり成功するはずがないなどと批判された。本社からは資金の半分しか提供されず、退路は断たれた。 1973年秋、プロジェクトのメンバー集めが始まったが、本社からの出向は断られ、労働組合の闘士、元商社マン、元自衛官、パン屋の営業マンなどの素人ばかりだったという。 またアメリカから届いた極秘のマニュアルは全くに立たず、出店に関する記述は当たり前のことしか書かれていなかった。 そんななか、1973年11月にはオイルショックが勃発、1号店の出店のメドは全く立たない状況にあったが、江東区の酒屋からコンビニへの転換を希望する手紙が届いた。しかしその酒屋の場所は、当時は工場と空地しかない埋め立て地の片隅であった。これが、日本のコンビニの第1号店となったのである。 ここからは私個人の話になるが、私が大学に入ったのは1971年であり、当然、学生時代にコンビニを利用したことは一度も無かった。その後、大学院生の頃や、旅行先ではコンビニを利用したことがあったはずだが、生まれて初めての利用がいつ頃であったのかは全く記憶していない。当時の新聞で、「最近コンビニという新しいスタイルの店が登場している。値段は高めだが、営業時間が長いので便利」というような報道を目にしたことはあった。 その後、出張や、海外旅行の前泊・後泊でビジネスホテルを利用する時には、最寄りのコンビニで買物をすることが多くなった。特に飲み物、ヨーグルトなど。ホテルの食事が割高であったり、周辺に食堂が無い時には、コンビニ弁当や朝食用のパンなども購入していたが、ここ2年近くは、コロナ禍で旅行や帰省の機会が無くなってしまった。 いっぽう、普段、コンビニを利用する回数はきわめて少ない。食料品や飲料は、ラ・ムーなどの大型スーパー、日用品は少し離れたホームセンターで購入するため、コンビニのお世話になることはない。例外的に、おかやまケンコー大作戦の歩数計の登録のためにローソンの店頭端末Loppiを利用しているが店内では何も買っていない。セブンのほうは、宅配便の発送や料金支払いで年に数回程度利用することがある。 次回に続く。 |