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数日前、岡大構内の芝地で、オオシロカラカサタケの菌輪が出現。8月19日、9月9日に続いて、同じ場所で今年3度目となる。これだけ頻繁に胞子を放出していたのでは、いずれ至るところからこのキノコが現れそう。キノコの観察は好きだが、このキノコは歓迎できない。 |
【連載】『プロジェクトX4Kリストア版』「日本語ワープロ」その3 昨日に続いて、9月7日にNHK-BSPで放送された、 【2002年9月3日初回放送】#95「運命の最終テスト 〜ワープロ・日本語に挑んだ若者たち〜 の感想と考察。 番組の中程では、本社には内緒で開発が進展し1年後の完成をめざしていたところ、半年ほど経ったところで、それを知った本社から事業部長が乗り込んできて「日本語のタイピストはせいぜい10万人、【ワープロ専用機の】市場は狭い。開発は中止だ。」と主張した。これに対して森健一氏は「これは10万人どころか、国民全員が使える機械です」と反論。すると事業部長は「ならば、1カ月後にテストを行い判断する」という条件をつきつけた。これが番組タイトルにもあった「運命の最終テスト」であった。 番組のストーリーではこの「運命の最終テスト」が最大の盛り上がりとなるのだが、ワープロ開発の研究の流れの中では、少々過剰な演出であるようにも思えた。 最終テストを前の更なる改善として、カタカナ熟語を変換ではなく、カタカナキーの押下で入力する方法が着想された。これにより、約6000のカタカナ語を記憶装置に登録する必要がなくなり小型化に貢献した。これらの努力により、変換率95%が達成されたという。テストまで一週間の段階では昨日も取り上げた「かんきょうおせん」の変換の改善が行われたということであったが、入力完了後の変換を、入力中から候補を絞り込む変換に修正するプログラムがわずか1週間で完成できたというのはにわかには信じがたい。 このところまでは納得できるのだが、1978年7月のテストの直前にモニターが真っ暗になったというエピソードは少々余計であるように思われた。原因は接触不良ということだったが、仮に修理に手間取ったとしても、そのこと自体はワープロ開発の致命的な欠陥というわけではない。いくら事業部長が頑固で短気であったとしても、接触不良という理由で製品化を取りやめるという判断をすることにはつながらないと思う。 ま、とにかくテストまでには接触不良の修理は終わり、無事、事業部長のゴーサインを貰うことができた。こうして、1979年2月には日本初のワープロ専用機が店頭に並ぶ。その後続々と他社も参入し、番組放送時までの20年間には3000万台を売る空前の大ヒットになったという。またワープロの開発で培ったディスプレイや記憶装置の小型化への技術は、1985年に登場した世界初のノートパソコンTT1100の開発に繋がった。さらに変換技術は、その後、日本の情報産業に欠かせないものとなり、インターネットや携帯電話など年間50兆円市場【←放送当時】を支えているという。 番組の終わりのところでは、手足の不自由な障がい者にとってワープロが欠かせない発信ツールになっていること、森健一氏が次に取り組んだ音声処理ワープロの開発がちょっとだけ紹介されていた。 以上が番組後半の概要であったが、9月23日の日記にも述べた通り、この発展の流れは、私自身の学生、大学院生、研修員、専任職という時期とピッタリ重なっており、いつどんなマシンやソフトが登場していたのかということもかなり記憶が残っている。 なお、番組では特に言及されていないが、というか初回放送時点ではまだそんなことは予想ができなかったが、ウィキペディアにも記されているように、ワープロ専用機は 出荷台数は1989年(平成元年)、出荷金額は1991年(平成3年)をピークに漸減し、ワープロ専用機の世帯普及率も1998年(平成10年)をピークに急低下、1999年(平成11年)にはついにパソコンの売上がワープロ専用機の売上を逆転した。という変遷をたどることになり、比較的短期間で消滅してしまった。但し、その後も、例えばポメラのような超小型のメモ機や、テプラのようなラベルライターに姿を変えて、それなりの役割を果たしてきたように思う。 ワープロ専用機がパソコンのワープロソフトに代わっていった背景としては、パソコンの汎用機能、低価格化、さらにインターネットの登場などがあるかと思う。9月23日の日記にも書いたが、私自身は1983年頃には、某研究所のパソコンで「松」というソフトを使っていた。その後1986年5月に「一太郎Ver.2」が発売されて以降は、本日に至るまでずっとATOKのユーザーとなっている。このことで1つだけ記しておきたいのは、なぜ「松」が衰退しその後、「一太郎」が圧倒的シェアを誇るようになったのかということだ。その最大の理由は、「松」が10万円前後の高価格であったのに対して、「一太郎」は発売当初の価格が松の半額程度になっていたということと、ソフト本体が簡単にコピーできたことにあった。大学の研究室などでは多くの学生や院生が自分の論文執筆や教授の下請けの原稿作成でワープロソフトを使う必要があったが、各自が私費でワープロソフトを購入するほどの金銭的余裕はなかった。さらに学生・院生が「一太郎」に習熟することで、ソフトに不慣れな教授たちも使い方を学生・院生から教えて貰うことができた。そして院生が他大学に就職すれば、自分の研究費予算ですでに使い勝手の慣れた一太郎を購入するようになる。この連鎖が圧倒的シェアに繋がったように思う。 ではその一太郎がなぜ、マイクロソフトのワードにシェアを奪われていったのかについては、いまいち分からないところがある。いずれにせよ、私自身は、定年退職後は、学生の提出リポートを読む機会も、種々の報告書をワープロで作成する機会も殆ど無くなり、一太郎もワードも月に数回程度起動する程度となったが、日本語変換のほうは相変わらずATOKのお世話になっている。 |