Copyright(C)長谷川芳典 |
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10月31日の岡山は明け方3時頃から午前中にかけて6.2ミリの雨が降った。写真は雨上がり、岡大構内から眺める霧のかかった半田山。右手の紅葉はナンキンハゼ。 |
【連載】ヒューマニエンス「山中伸弥スペシャル iPS細胞と私たち」(1) 10月7日に放送された表記の番組についての感想・考察。なお、これまでの放送リストはこちらにあるが、毎回、内容が盛りだくさんで、感想・考察の執筆が追いつかない。 この回は山中先生をお迎えして、iPS研究の現状や可能性が語られた。iPS細胞の研究は、発見から15年が経過しているが、山中先生によれば、マラソンの中間地点を過ぎたあたり、あるいは30km地点という段階まで進んでいるという。 iPS細胞の話はよく耳にするが、私には素人向けの説明でもよく分からないところがあった。少なくとも、
上記の1.については、番組の中ほどで説明があった。それによれば、そもそも1つ1つの細胞の中には、体のあらゆる部分を含んだ設計図(=遺伝子)がまるごと収められている。なので、受精卵の段階では、細胞は何にでも変われるという点で「万能」である。しかしその後、それぞれの細胞の設計図の特定の部分、例えば肝臓とか腸とか皮膚とか心筋といった部分だけが機能し、それ以外の必要のない部分はブロックされるようになる。これによって特定の臓器や部位が形成されていく。 そこで、特定部分以外がブロックされる仕組みが解明されれば、それを外して万能細胞を作れるというのが、それまでの主流の考え方であったという。これに対して山中先生は、ブロックの仕組みはさておき、何らかのカギとなる遺伝子を入れればブロックを外せるのではないかと考えた。とはいえ、遺伝子は2万数千もあり、お目当ての遺伝子を見つけ出すのは大変な数の組合せで調べる必要が出てくる。山中先生は、その中から、とりあえず練習のつもりで24個を選んで入れてみたところブロックが外されることが確認された。最終的には、この24個は4個に絞られた。 こうした発想のヒントとしては、ショウジョウバエの研究があった。ショウジョウバエの研究で、1個の遺伝子を働かせるだけで触覚になるはずの細胞が足になることが分かっており、そういう機能をもつ遺伝子が何個かあれば受精卵になるかもしれないという予想があったという。また山中先生には、研究がうまく進まない時期を経て、たまたま奈良で研究するチャンスがあり、研究者としては半分死んでいたことから「どうせやるなら、かなり難しいことをしよう。もう怖くない」という心境があったという。 このあたりの経緯はウィキペディアの該当項目にも記されている。 帰国して日本学術振興会特別研究員 (PD) を経たのち、日本の医学界に戻り、岩尾洋教授の下、大阪市立大学薬理学教室助手に就任。しかし、(就任直後当時の)研究環境の米国との落差に悪戦苦闘の日々が始まるようになる。アメリカ合衆国と異なりネズミの管理担当者がおらず、ネズミの管理に忙殺された。また当時としてはiPS細胞の有用性が医学研究の世界において重視されておらず、すぐに役立つ薬の研究をしなかったため、周囲の理解を得られずに批判される毎日が続き、半分うつ病状態になった。本人は当時のこの状態をPAD(Post America Depression=米国後うつ状態)と呼ぶ。基礎研究を諦め、研究医より給料の良い整形外科医へ戻ろうと半ば決意した中、科学雑誌で見つけた奈良先端科学技術大学院大学の公募に「どうせだめだろうから、研究職を辞めるきっかけのために。」と考え、応募したところ、採用に至り、アメリカ時代と似た研究環境の中で再び基礎研究を再開した。奈良先端大では毎朝構内をジョギングして、体調管理に努めた。ウィキペディアの関連項目を見ていると、iPS細胞開発当時には、黄禹錫のヒトES細胞の論文捏造事件もあり、また、徳澤佳美氏の貢献など興味深い記事もあった。 次回に続く。 |