じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 11月19日の夜、「ほぼ皆既月食」を眺めることができた。皆既月食には至らなかったが、地球の影によって光を失っている様子がリアルに感じられた。

2021年11月20日(土)



【連載】瞑想でたどる仏教(1)体験知の言語化/体験の利己性と利他性

 NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回[]にわたって、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する

というシリーズが放送された。8月の第5回を除き一通り視聴したものの[]、月1回では間隔が空きすぎて、私のような老化が進んだ脳では記憶が持続しない。そこで、年末を迎える前に備忘録を作っておくことにした。
第5回は8月に放送された模様だが、オリンピック・パラリンピックの中継などで放送スケジュールが把握できず、録画に失敗してしまった。

 ちなみに私自身は根っからの無宗教であり、天国や地獄も、霊魂の存在も、神仏の超自然的な力も、全く信じていないが、仏教の本質はそういう世俗的な信仰ではなく唯識論[]にあり、また日本古来の素朴な信仰は自然を敬い自然の中で生かされている人間を理解する上で大いに意義があると考えている。今回の「瞑想」のシリーズについては、マインドフルネスとの関連で以前から注目していたが、その起源までたどって学ぶという機会はこれまで殆ど無かった。なお、このシリーズの解説は蓑輪顕量先生(東京大学、僧侶)、聞き手は為末大氏(オリンピック3回出場、元プロ陸上選手)と中條誠子アナウンサーであった。
唯識は仏教の根本思想と言われるが、2017年に同じ「こころの時代」で放送された「唯識に生きる」というシリーズによれば、唯識の思想自体は、4世紀から5世紀のインドで、世親と無著によって打ち立てられたとのことで、釈迦よりは後の時代となる。




 第1回の初めのあたりでは、瞑想は仏教にとって重要であり、ブッダが悟りをひらく過程を追随体験するような側面があるとされた。

 瞑想は、ブッダの誕生以前からすでに存在しており、ヨーガもこれも含まれる。よく知られたエピソードによれば、
シダッタは、お城の外を出た時に白髪の老人、病を患う人、葬式の隊列に遭遇することで「老病死」の苦しみを知り、それらから逃れる方法を知るために出家、2人の仙人に教えを受けて「深く集中することで心の動きを止める」という瞑想の修行に励むが、ひとたび瞑想を止めて日常に戻ると、悩みや苦しみに再び襲われることから、そのような瞑想では役に立たないことが分かった。シダッタはその後、菩提樹の下で瞑想に取り組み、独自の瞑想法を編み出した。これが悟りであり、シダッタは「悟りを得た人」という意味でブッダと呼ばれるようになった。
このエピソードは後の世の創作であると考えられるが、歴史上、ブッダが存在していたことは確かであり、ブッダは「悟り」の過程で得た「体験知」を言語化したことは確かであったようだ。ブッダは当初は自分の苦しみから逃れることから瞑想を始めたが、自分の苦しみに引き寄せて人々の苦しみを救う方法を確立した。

 ここまでのところで感想を述べさせていただくと、まず、ここまでの段階ではブッダが得た悟りは、思考と体験の成果であり、必ずしも宗教とは言えないように思われた。もっとも、何をもって宗教とするのかは難しい。『新明解』では、宗教は、
@生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いを叶えてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念をいだきその教えに従おうとする心の持ちよう。また、それに関連して行なわれる儀礼的行為。
A仏教・キリスト教・イスラム教など、全世界に分布している「宗教(一)」。また、その総称。
というように定義されているが、仏教の瞑想自体は必ずしも「絶対者の存在」を信じる行為では無いようにも思う。




 次に、為末さんが指摘されたことであるが、
体験知というのはスポーツの世界でもよくあるが「やってみなければ分からない。やって体が分かれば分かるんだと言って、説明がとても難しいという特徴がある。もう1つは、本当かどうかよく分からない。言葉で説明できないことをただごまかしているだけではないかとも言えそうだが、ブッダはどうやって、言葉にできないような体験知を伝えようとしたのか?【長谷川の聞き取りによるため不確か】
という疑問が出てくるが、これに対して蓑輪先生は、「ブッダは自分の体験をきっちり整理され言葉にしていった。それができたことがスゴイ」と答えておられた。
 ここで言われていた「体験の言語化」というのは、科学の出発点でもあるように思う。スキナーも『科学と人間行動』の本などで指摘していたが、単なる熟練技術の伝承は科学とは言えない。それを言葉に置き換え、再現可能、反証可能な形に体系化したのが科学である。科学という言語化は、徒弟制度から産業社会に発展する過程では不可欠であった。個人の体験談のようなものであっても、それを行う道筋や成果の確認方法が確立していれば科学の出発点になりうる(そうではなくて、単に自分の印象に残ったことだけをつなぎ合わせた成功談、失敗談のようなものでは科学とは言えない)。




 もう1つ、これも為末さんが指摘された疑問であるが、
ブッダは最初は自分の苦しみの解決のために修行に行ったのか、それともみんなの苦しみの解決のために修行に行ったのかどちらだったのでしょうか?
という点であるが、蓑輪先生によれば、
(ブッダは)自分のことに引き寄せて、必ず誰もが、生まれる苦しみ、歳をとる苦しみ、病にかかる苦しみ、死に至る苦しみを経験する。そのように考えれば、最初は自分の苦しみをいかにして逃れるかというところから始まったと考えてよいと思う。
と答えておられた【長谷川の聞き取りのため不確か】。為末さんも「自分の身で体験してみて、こうやったら苦しみが逃れられた。じゃあみんなも同じやり方でそれぞれの人が瞑想を通じて逃れられるんじゃないか、そういう順番でよろしいですか」と確認しておられた。
 以前、このWeb日記でも考察した人があるが、もし自分の苦しみから逃れることだけを目当てに修行をしている人が居たとしたら、それは純粋な利己主義者であると言える。しかしその個人主義思想を他者に広め、多くの人が同じ思想を実践したとすれば、結果的にその利己主義者は多くの人に役立つ思想を広めたことになり、利他主義者と同じように他者へ貢献したことになる。(もう少し俗っぽい話をするなら、ギャンブルで金儲けをして生計を立てている人は利己主義者だが、その人がギャンブルで金儲けをする指南書を刊行して、多くの読者が金儲けに成功すれば利他的な貢献をしたことになる)。
 そのいっぽう、本人は利他的な思想を実践していると考えていても、客観的には利己主義者と同じ生活をしているという場合もある。例えば、どこぞの山奥のお寺で、世界平和や人類の幸福のために1日の大半、祈りを捧げている人は、主観的には利他主義者であるが、私のような利己的な隠居人と同様で、客観的には世間に何の貢献もしていないと言えるかもしれない。
 ま、そういうふうに考えてみると、スタート段階で、自分のためにするか、みんなのためにするか、というのは必ずしも社会貢献の物差しにはならない。実際に行動した結果、どういう影響を及ぼしたのかによって評価されるという面もある(スポーツ選手の場合などまさにそうだが、自分自身が勝つために努力することは完全に利己的だが、その努力の成果が達成されることで多くの人々が元気づけられるのであれば、結果的に社会に貢献したことになるだろう)。

 不定期ながら、次回に続く。