Copyright(C)長谷川芳典 |
|
岡大・本部棟近くの紅白のサザンカ。今年は花つきが良い。 |
【連載】瞑想でたどる仏教(2)八苦、念処 昨日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回[※]にわたって放送された、 ●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する の備忘録と感想・考察。 第1回では続いて、「生老病死」の四苦に加えて、4つの苦しみがあると論じられた。(【 】内は長谷川が追加)
ブッダは念処(ねんじょ)という瞑想方法を通じて悟りに到達したが、この念処(サティパッターナ)は、現在の仏教研究者たちによる最も適切とされている訳では、 ●注意を振り向けてしっかりと把握すること とされているという。ブッダは念処を4つのタイプに分けた。
ブッダ自身はまた念処を「止(し)」と「観(かん)」という2つの方法に分けており、前者の「止(=サマタ)」はブッダが悟りをひらく前に2人の仙人から教わった方法であり、一点に集中し、心の働きが止まっていくという意味で名付けられた。いっぽうの「観(=ヴィパサナー)」は観察対象を広げその周囲にも注意を向ける。ブッダ以前の瞑想は「止」であり、確かに瞑想の最中は心の働きが起きないので悩みも苦しみも生じない。しかし「止」から日常に戻ると悩みや苦しみが復活してしまう。ブッダは「止」は真実の悟りに至る道ではないのではないかと考え、ブッダのオリジナルの方法である「観」を重視した。この「止」と「観」の区別は、ブッダのお弟子さんたちによって定式化されたようである。 ここからは私の感想・意見になるが、まず人間が生きていく上での本質的な苦しみが八苦であるかどうかについては、私自身はあまり当てはまらないような気もする。生老病死のうちの「生」の苦しみについてはよく分からないところがあるし、「老」は生き物の必然であると思えば別段「苦」にはならない。「死」は確かに苦しみを伴うだろうが、苦しいと感じるのはまだ生きている証拠であり、「死」はむしろ苦しみが終了する瞬間とも言える。となると残るは「病」だが、これも病気の種類により異なる。 八苦のうちの「生老病死」以外についても、「求不得」に当てはまるほどの欲しいものはないし、客商売をしていないので嫌な人には最初から会わないだろうし、「五陰盛」はもう少し調べてみないと何のことかよく分からない[※]。残る「愛別離」は確かにあるが、これも人間関係次第でいろいろ変わってくるように思う。 [※]ウィキペディアでは、五蘊苦(ごうんく)と表記されており、以下のように説明されている。 ...元のパーリ語は、パンチャ・ウパーダーナ・カンダ・ドゥッカ。パーリ語の組み合わせは、「パンチャ」は「五つ」、「ウパーダーナ」は「執着する、固執する」、「カンダ」は「要素(蘊)」、「ドゥッカ」は「苦」という意味なので、 「五つの要素に執着する苦しみ」というのが原文の意味である。 日本仏教においては五蘊盛苦を漢訳の訳語から解説する場合が多いが、漢訳の五蘊盛苦では「ウパーダーナ」、つまり「執着する」という意味が入っておらず、原文のニュアンスが伝わりにくい訳となっている。 ということで、私自身としては、八苦がすべて該当するかどうかはよく分からないし、探して見ればもっと別の「苦」がありそうな気もしている。 念処の4つのタイプについては、外界の刺激を受容しそれに伴って生じる反射や情動反応、並行して受容される刺激を事細かく体感するということであれば、まさしく生理的な反応プロセスそのものの把握であり、どこが宗教なのか分からないところがある。もっとも、こうした観察対象は、行動分析学の概念で言えば「レスポンデント行動」のプロセスに限られており、オペラント行動は含まれていない。じっさい、瞑想をする時のポーズというのは、じっとしている状態であって、身体レベルでのオペラント行動は何も起こっていない。なので、瞑想によって把握できることは、人間行動のすべてではない、という気もする。もっとも、例えば車を運転している最中には瞑想はできない。おそらく、「観察する」という行動もオペラント行動なのであって、別のオペラント行動の遂行中に同時にそれを観察することは注意の分散を招き、単に「気が散るだけ」になってしまうのかもしれない。 いずれにせよ、四苦八苦というのは普段はそんなに意識されるものではない。何もしないからそういう苦しみにとりつかれるだけであり、日頃能動的に行動し、それが適宜、強化されている人にとっては、無理に意識しなければならないものではないようにも思われる。 不定期ながら、次回に続く。 |