じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山植物園の日時計と太陽を重ねて皆既日食に見立てたところ。実際の皆既日食の場合は空が真っ暗になるのに対して、このシーンでは、周りの空は明るいままで、本物のコロナは見えない(たまたま太陽の周りの雲が白く光っているだけ)。
 それにしても、新型コロナが出現してからは「コロナ」という言葉のイメージが大きく変わってしまった。


2022年1月17日(月)



【連載】瞑想でたどる仏教(23)慈悲観や十二因縁と戯論

 1月14日に続いて、NHK-Eテレ「こころの時代」で、4月から9月にかけて毎月1回、合計6回にわたって放送された、

●瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する

のメモと考察。

 前回の日記で、『摩訶止観』によれば、煩悩が生じた時の対処法は「治法」と呼ばれるが、治法の内容は瞑想者の気質によって決まってくるという話を取り上げた。
  • 貪欲(とんよく):食欲や色欲など、むさぼりの気持ちが強いタイプ。
  • 瞋恚(しんに):怒りの気持ちの強い人。他人の横柄な態度などの腹立たしいことが浮かび、イライラするタイプ。
  • 愚痴:愚かさが強く、見聞きしたことや物事の道理を理解できないタイプ。瞑想中も頭の中で右往左往する。
  • 等分:上記3つのタイプがどれも等しく存在しているタイプ。
 このうち、貪欲に対しては「不浄観」、瞋恚に対しては「慈悲観」、愚痴に対しては「十二因縁」が有効であると説明されていたが、私にはイマイチ納得できないところがあった。
 まず「貪欲に対して不浄観」という治法であるが、これは、部分的にはパブロフ型の嫌悪条件づけを行っているようなものであり、ほんらい生得的に備わった仕組み(例えば性的な刺激に対して興奮反応が生じるというような無条件反射の仕組み)を無理やりコントロールしようとしているような気がする。貪欲と言われる現象に対しては、結局のところ確立操作(動機づけ操作)で対処するほかはないように思うが、無理やり消し去ろうとしても無理が生じるのではないかと思われる。
 次の「瞋恚に対しては慈悲観」であるが、ネットで検索したところ、

●慈悲観:すべての衆生(しゅじょう)を観じて慈悲のおもいを生じ、いかりをとどめる観法。

というような説明があった。またウィキペディアでは、

●慈悲:他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう【魚川祐司 『仏教思想のゼロポイント』 新潮社、2015年5月、165-167頁】

となっていた。私がまだ理解できていないのは、「慈悲のおもい」あるいは「○○を望む心」というのは、形而上学的な議論であるゆえ、戯論ではないかということ。もちろん、人間は進化の過程で、親子や仲間を大切にするような特徴を身につけてきたが、もし生得性であれば戯論に含まれないというのであれば、上記の貪欲も同じような性質であり排除できないように思われる。

 同じことは、「愚痴に対する十二因縁」についても言えるように思う。為末さんもこの点について疑問を持っておられたようで、「『戯論』も因果関係を追う動きのような気もする。戯論との違いはどこにあるのか?」というように質問しておられた。これに対して蓑輪先生は、
これは、戯論という言葉の使い方による。広く使うと、私たちの心が起こした働きは全部戯論になってしまう。しかし、すべての戯論を間違いであるとはみていない。マイナスの方向にいってしまう働きについては気をつけている。でも、プラスの方向に行くようなものについては、しっかりと認めている。例えば貪欲にしても、「悟りを自分のものにしたいという欲求(菩提心)」は否定していない。欲望にしても、どのような欲望を持つか、というところに大事な視点がある。
と説明しておられた【長谷川の聞き取りによる】。

 蓑輪先生の説明は分かりやすい内容ではあるが、深く考えていくと、何をもって「プラスの方向」、「マイナスの方向」を区別するのかを判断する基準が別に必要になってくるように思われる。「どのような欲望を持つか」についても、どこかで、これは良い欲望、これは悪い欲望ということを見極める必要があるように思う。素朴に考えれば、すべての人が平和で健康な生活を送ることができるように望むことは「良い欲望」と言えるが、それを実現・継続させるための方法については対立が生じるであろうし、また「すべての人が○○できる」という場合でも、全体の幸福を優先するのか、それとも「多様性を重視し、個々人が望んでいることを実現できるような社会をめざす」のか、によって基準が変わってくるように思う。

 次回に続く。