Copyright(C)長谷川芳典 |
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最近、と黄色のウクライナカラーを目にすることが多くなった。ウクライナへの連帯を示す目的のものもあれば、スカイツリーのように偶然、ライトアップの色が一致する場合もある。 私の生活圏内で一番よく見かけるのは自動車学校の送迎バスで、以前から青と黄色に塗り分けられている。私には縁の無い送迎バスだと思っていたが、今年の5月以降に、高齢者講習を受ける必要があり、この教習所にお世話になる可能性が出てきた。 |
【連載】『まいにち養老先生、ときどき… 2022冬』その6「外来種論議」「仕事と付き合い」「よい人生」 昨日に続いて、表記の番組(NHK-BSP 2022年3月26日初回放送)のメモと感想。今回で最終回。 京都国際マンガミュージアムで、ウスビ・サコ先生と対面するシーンではもう1つ、外来種に関して興味深い対話があった。サコ先生が、「日本で外から入って来る虫は邪魔者と見られてなかった?」と問いかけたことに対して、養老先生は、 これは2通りに分かれてけんかしていますよ。外来種がダメだと言うと、根こそぎにしなきゃならなくて大変なんです。それより「生態系が豊かになった」とニコニコしているほうがいいと思うね。と答えられた。サコ先生は、 私もそう思うが、「外来種はダメだ」とか「外から来るものは汚染する」とかいう話がある。人間社会も近いものがあるかなって思ったんです。だから(みんながいう)多様性って、結局“ファッション”ですよね。と、人間社会に関連づけて考えを述べておられた。 養老先生は外来種について各所で発言しておられたり御著書の中でも考えを述べておられるようだが、その基本は「外来生物の規制より生態系の理解が必要」という点にあるようだ。ま、外来種vs在来種と言っても、どの時代に入ってきたのかによって種別は異なってくる。イネも大昔に日本に入ってきた外来種であるというし、日本人の祖先も、かつて大陸から日本列島に移り住んだ外来種ということになる。しかし、そうは言っても、今の時代、外来種の侵入を成り行きに任せるというわけにはいかないように思う。今の時代の侵入は殆どの場合が人の流れや物流によって持ち込まれたものであり、少し前のヒアリ、最近話題のアルゼンチンアリなどを見ても、放置できない問題となっている。緩やかな環境変化に応じて生態系が変わっていくこと自体は「成り行き」に任せるほかはないかもしれないが、自分たちの行動によってもたらされた急激な環境変化については人類は責任を持つ必要があるように思う。これは地球温暖化の問題も同様。 放送では、このあと、養老先生が福島県会津若松市を訪れるシーン、みずから館長をつとめるムシテックワールドでの子どもたちとの交流などが紹介された。定年退職と同時に「隠居人」生活を決め込んだ私のような者と異なり、84歳になられてもなお、社会との交流を続けておられるのはスゴイことだと思う(←といって、私自身は今さら社会活動に参加したり、対人交流の輪を広げたいとはこれっぽっちも思わないが)。 もっとも、養老先生ご自身は、世の中よりも自然に目を向けておられるようであった。 【いろんなものが変わったと思うんですけど、という問いに】みんなそう言うんだけど僕はあんまり感じない。世の中が移り変わっても、そういうことでは変わらないものを若いときから探しているわけで、特に自然を見ていると、そもそも全く変わらないと言ってもいい。それはそうですよ。何千年もの間、何度も繰り返しているんだから。...目がヒトの世界に向いているか、自然に向いているかでずいぶん違うと思う。 放送の終わりのあたりではは、脳科学者の茂木健一郎さんとの対面シーンがあった。茂木健一郎さんは、養老先生の「親しい後輩の一人です」と紹介された。余談だが、出身高校という点では、私から見ても、後輩にあたる。案内メールによれば、何でも昨年度、高校同窓会企画で茂木健一郎さんのオンライン講演が行われたとのことだ。もっとも私よりも10歳もお若いので、全く面識はない。 対面シーンでは、小林秀雄の『本居宣長』が取り上げられていた。本居宣長は本職は医者であるが、養老先生によれば、本居宣長にとって医師は自分の生業、いっぽう「鈴屋」と称する2階の四畳半へあがって国学の仕事をするが、それは自分の生業(世間的な仕事)とはなんの関係もない。「仕事」と「世間との付き合い」を分けていた、という。これに対して茂木健一郎さんのほうから、養老先生の場合はどうなんですか?と問われたところ、 本を書いたりするのは付き合いでしょう。まさしく。(茂木健一郎さんが、「ご自身の好きな仕事はやっぱり虫?」に対して)そうそう、虫、自然。...見たことはないが、本居宣長は、「鈴屋」にはしごで上がるんでしょう? 上にあがったら、はしごを引き上げちゃえばいいんだよね。(世間と)本当に切れちゃうんですよ。と答えておられた。 また、茂木健一郎さんが、 やっぱり「距離感」ですかね。世間との。この独特の養老先生の距離感を学びたいんだよな。養老先生がすごいと思うのは、「世の中をよく変えよう」とかいう発言は全然されないじゃないですか。と述べられたのに対しては、「毛頭ないんだよ そんな気。.....成るべくして成っているから 物事は こうなったものはしようがないだろう」と答えておられた。 放送ではさらに、鎌倉の養老邸で雪が降る中、 「自分の記憶を全部コンピュータに入れたらどうなりますか?」と聞いてくる人が多いが、自分がコンピュータの中で生きられると思っているんだよ。そんなものは止まったままで、どうにもなりませんよ。そういう時代は、生きることが分からなくなっちゃう。「生きている」って、こうやって時間が過ぎていくこと。目の前でね。その感覚が消えちゃうんです。この間も小学生の質問で、「よい人生を送りたい よい人生って何でしょう?」って(聞かれたが)、人生って今は100年ぐらいかかるものでしょう。100年ぐらいかかるものを言葉にすると「人生」ってひと言になっちゃう。その100年、どこへ行っちゃうんだよって話で。一瞬一瞬を刻んでいくように生きているわけですよね。それを「ひと言で言ってください」になっちゃう。と述べるシーンがあった。このあたりは、関係フレーム理論でいう「プロセスとしての自己」と「物語としての自己」に関係しているようにも思われた。どんなに歳をとっても、「生きている」は「いま、ここ」であり、過去の生きざまに対する回想的な評価ではないということか。 |