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【連載】プロジェクトX4Kリストア版『宅急便』、『国産複写機』の開発とコピー機の思い出 昨日に続いて、NHK-BSPで、4Kリストア版として再放送されているプロジェクトXの話題。本日は、4月以降5月上旬までに視聴した4回分のうち、1.と2.について取り上げる。
まず1.の『腕と度胸のトラック便』については、2001年5月29日の日記で感想を述べたことがあるが、21年ぶりの視聴ということで記憶がかなり薄れていた。 1つ記憶違いだったのは、北海道で荷物をかついで山奥の集落まで届けるというエピソードであった。私は、この荷物は時間通りに届けられたものを思っていたが、改めて視聴したところ、途中で引き返したという内容であった。もっとも配達できなかったのは一度だけであり、荷物を担ぐ時のリュックは今でも大切に保管されているという話であった。 続く2.のコピー機の話題だが、放送では、1959年にニューヨークで開かれたナショナル・ビジネス・ショーに、田中宏さんが複写機を持ち込んだところから始まった。その複写機は、特殊な印画紙に図面を写し取るという方式であったが、会場ではXerox914という世界初の普通紙複写機が登場していた。原理を考えたのは天才発明家と言われたチェスター・カールソン氏。この頃日本国内ではカメラ市場が行き詰まっていたころから、生き残りをかけて国産複写機の開発に取り組んだ。しかし元祖のXerox社は300件の特許を有しており、それを侵害すれば莫大な賠償金を取られる。さまざまな困難を克服し、NP-1100という国産複写機が発売されたのは1970年9月であった。しかしゼロックス社の力は強大で、実際に製品には使われていない特許まで持ち出して争う姿勢を示した。ゼロックス社の特許は「感光体と光をあてる」という技術でありこれには「同時にあてる」も含んでおり、CANONの「同時にあてる」方式は侵害になるというものであった。これに対して、実際にはゼロックス社の方式では同時にあてても画像は出ず、CANONの特許は取り消されなかった。その後、日本メーカーの生産台数は300万台を超え、アメリカを抜いて世界一の複写機大国になったという。田中宏さんは、その後アメリカの学会からカールソン賞を受賞した。カールソンという名前は、かつてゼロックス社にコピー機の原理を提供したチェスター・カールソン氏であった。また、CANONは、アメリカで1987年には846件の特許を取得し、なみいる世界企業を抑えて頂点に立ったという。 ここで思い出話になるが、私自身がコピー機を初めて使ったのは高校生(1968.4〜1971.3)の頃であったと思うが、当時はコピーができる場所が限られており、しかも高価であったため、勉強に利用するのは困難であった。大学入学後の文献のコピーは普通紙ではなく感熱紙のみであり特有の匂いがした。いっぽう、研究発表の際のレジュメは「青焼き」(ジアゾ式)であった。いつ頃から普通紙コピーに切り替わったのかは覚えていないが、卒論提出の際にはゼロックスでコピーをとっていた。 ネットで検索したところ、
コピー機は大学での授業や委員会資料などに不可欠であるため、私自身も大学生だった1971年以降50年以上にわたってコピー機のお世話になってきた。いくつか思ったことを挙げてみると、
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