じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 ウォーキング中に見かけた津山線「SAKU美SAKU楽」。9月末までは、金土日に単独運行、月曜日は定期列車に連結して運行していたが、こちらの情報によれば、10月1日以降は、土日祝日に定期列車(快速ことぶき号)に連結して運行するとのこと。単独運行は9月30日が最終か?

]10月以降は、
  • SAKU 美 SAKU 楽のご乗車には、乗車券(おとな 1,170 円、こども 580 円)の他に、普通列車の指定席券(おとな 530 円、こども 260 円)が必要です(岡山駅〜津山駅間片道の価格)
  • JR西日本ネット予約「e5489」、全国のJRの主な駅、全国の主な旅行会社で販売します
  • 指定席券の利用区間は、岡山駅〜津山駅発着の区間のみ発売します
  • 車内で提供する特別なお食事を、ぜひ、せとうち観光ナビ「setowa」であわせてお買い求めください
ということなので、乗車券のほか指定席券530円を購入するだけで乗車できるようだ。

2022年9月26日(月)



【小さな話題】「人間界から自然界へ」のはずが「隠遁生活から喧噪の世界へ」になってしまった

 国内外を問わず、これまで、私が出かける旅行先は主として、山、大草原、砂漠、辺境地域、...というように人間の少ない世界を目ざすものであった。これは、都会の喧噪を離れて、静かに大自然に対峙することを志向したものであり、今回のモロッコ旅行も同様であるはずだったのだが、定年退職後の隠居生活が4年半に及んだことで、旅行に出かけるということは、隠遁生活から喧噪の世界に足を踏み入れることになってしまったという印象が強い。

 じっさい、私の日々の生活(=日常)では、妻は別として、それ以外の人間と会話を交わす機会は。近隣住民、ウォーキング先の植物園のスタッフ、たまに訪れる岡大構内で出会う人たち、に限られており、それも簡単な挨拶程度となっていた。いっぽう、団体ツアーとして海外に出かけた場合は、ホテルの客室でくつろぐ時間を除けばすべてが団体行動であり、3食の時間、山登り、専用バス車内、観光先など、すべての場で他者との交流が必要になる。つまり、普段の生活のほうがよっぽど人間界から隔絶されていたのである。

 団体ツアーでの参加者同士の交流は、その時々で大きく異なる。時には、不仲が生じる場合もあり、ランドクルーザーに分乗するツアーで「あの人と同じ車に乗るのは嫌だ」という要望に配慮して、座席のローテーションが変更されたこともあった。いっぽう、今回の場合もそうだが、登山主体のツアーでは話が盛り上がることが多いように思う。これはおそらく、日頃から山岳会や同好会に所属して集団登山に慣れていて、お酒を飲んだりしながらワイワイ騒ぐことを楽しむ人たちが多いためではないかと思う。以前、カムチャツカの登山ツアーに参加した時などは、夕食時に会話が盛り上がってしまって一向に収束せず、私などは早く温泉プールに入って休みたいと思っているのになかなか退席できないということがあった。

 今回のツアーでは、マラケシュとフェズの旧市街の観光が含まれていたが、ここには大勢の人たちがいた。これまた、滅多に人混みには入らない私にとっては、まさしく「隠遁生活から喧噪の世界へ」となった。

 このほか、飛行機内もほぼ満席となっていた。私は主として窓際の席(A列)に座っていたが、どうしてもトイレに行きたい時は、B列とC列に座っている人たちに声をかけて席を立ってもらう必要があった。最初から通路側の席を選べばその心配はないのだが、機上からの眺めもなかなか捨てがたい。

 けっきょくのところ、私にとっては、できれば一人旅のほうが望ましいが、移動手段の手配などの煩わしさを避けるためには団体ツアーに頼らざるを得ないという事情がある。極言すれば、もし、「食事中や専用バス車内での私語は厳禁」などという「だんまりツアー」に参加したとしても、旅行体験そのものの価値は少しも変わらないように思えるし、参加者同士でワイワイ盛り上がるツアーよりもよっぽど気楽に過ごせるような気もする。

 ということで、旅行中の対人交流に煩わしさを感じる度合いが高まり、そのいっぽうで、隠遁的な日常生活のほうにいっそうの居心地の良さを感じるようになった時には、もはや旅行には出かけないという選択肢もアリになる可能性もある。

 なお、最近、ツイッターを通じて中島義道botを拝読しているが、その中にいくつか、今の私の気持ちにピッタリのお言葉が見出されることがある。例えば、
  • 社会的に成熟して他人とうまくつき合うことは大層しんどいのに、それこそ唯一の正しい生き方であると洗脳されつづけますと、ますます自分を追い込んで不幸になる。そうではない生き方、しかも豊かな生き方があると思い込めたら、なんと救われることか。『ひとを<嫌う>ということ』
  • 他人を警戒して観察し続けながら快活である人間はどこにでもいる。彼らは、いかに陰鬱な気分のときでも他人の前に出るとつい明るく振る舞ってしまうほど人生に(すなわち他人に)傷めつけられているのだ。『哲学者とは何か』
  • 自分の身に危険がふりかからない範囲での「思いやり」など、気楽な「思いやり」であり、そんなものはじつは「利己主義の変形」だとハッキリ教えるほうが、そしてそう承知したうえで「思いやり」を実行するほうが誠実であろう。『<対話>のない社会』
  • 「おまえのためを思って言っている」という言葉を吐く人は限りなく鈍感です。こちらの気持ちを正確に察知して言っていることは稀で(ほとんどなく)、自分の気持ちを押しつけているだけなのですから。しかも、「よいこと」をしているという思い上がりがある。『私の嫌いな10の言葉』
  • 人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を支配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛を押しつけることも、相手から信頼や愛を押しつけられることもない関係である。『「人間嫌い」のルール』
などなど。もっとも、私自身は、普段の生活の中では、人間関係はそれほど重要ではなく、それに振り回されることもない。太陽系を廻る惑星に関心の無い人が夜空を見上げても何も感じないのと同様で、私自身、普段は、人間関係そのものに無関心であるゆえ、あれやこれやと人間関係について考えるということすら無いというのが実情である。ま、介護を受けるような身の上にでもなれば、そうとも言っていられなくなるのだろうが。