じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 ベランダで日の出の写真を撮っていたところ、1匹の蜂がやってきて洗濯物に止まってウロウロしていた。洗剤に含まれる芳香剤に惹かれてやってきたのではないかと思われる。その場では蜂の種類は分からなかったがネットで調べたところ、蜂の中でも特に危険と言われるキイロスズメバチの可能性が高いことが分かった。くわばらくわばら。

2022年10月29日(土)



【小さな話題】相対論と量子論から見た宇宙の始まりと終わり(5)

 昨日の続き。
 放送の終わりのところでは、本題の「宇宙の始まり」についての突っ込んだ議論があった。宇治原さんの「宇宙はなぜ始まったか?」という問いに対して、須藤先生は「わからない」と答えた。宇治原さんが読んだホーキング博士の本では、【科学者たちが提唱している宇宙誕生の説は】「ヒゲの生えた杖を持った神様が杖を一振りして宇宙が始まった」と言っているのと殆ど同じレベルの話だと書かれてあったという。須藤先生は「結局そこに行くと分からないので、そういう例え話でお茶を濁しているんですよ」と述べられた。
 須藤先生はさらに「宇宙が始まった時に時間と空間ができたと思われているようだが、私が分からないのは宇宙の法則がいつ生まれたのか?ということ。宇宙が誕生した時に物理法則や全ての物が同時にできたとすれば、宇宙が始まる前を物理法則に従って決められない。」という問いを投げかけられた。
 このことについて橋本先生は、「宇宙と素粒子の人で考え方がだいぶ違う。宇宙っていうのは素粒子の入れ物。入れ物を用意しないと中に素粒子が入られない。でも順番は逆かもしれない。素粒子が初めにあってそれがどこまで動き回れるかが空間という考え方もできる。そういう考え方に立つと、初めに宇宙がないといけないということにはならない。素粒子、つまり法則が先にないといけない、その法則がどこまで空間を作っていけるか、それによって宇宙という概念が造られている、これが素粒子の考え方」と回答された。いっぽう宇宙物理学の立場から須藤先生は「実は、橋本さんがおっしゃったことって、僕の言ったことと同じじゃないかと思うんですけろ、宇宙が始まるというのを時間と空間が始まるのではなくて、まず法則が始まると言っているだけなんですよ、つまり、宇宙は狭い意味の時間と空間だけでなく、法則も含む。だから、法則がいつありましたか、を議論しないといけない。しかしそれは自己矛盾している。法則が生まれるためには法則が要るというのであればこれは物理学ではない、哲学的な考え方に近い。そこまで言うほど現代物理学は進化していない。」と応じられた。
 須藤先生はさらに、「橋本先生が書いた式というのは“現代物理学が到達したまとめ”であるが、同時に我々はこれが完璧に正しいわけではないということも分かっている」と指摘された。橋本先生は「素粒子物理学者や宇宙論の研究者は、この式をさらに完璧なものにするという作業をしている」と応じられたが、これに対して須藤先生は「だから、この式を使って宇宙が始まった時どうなったと言うことはできるが、じゃあそれが本当に正しいかと詰問されると、ま、いろんな解がありますねというのが正直なところ」と述べておられた。
 宇治原さんからはさらに、完璧な宇宙の法則が見つかったら、その数式は今より短くなりますか?という質問が発せられた。その点については橋本先生も須藤先生も同意見であった。放送終了時の感想として「まだわからないことがあることがわかった」と述べておられた。




 ここからは私の感想・考察になるが、宇宙の始まりについてについての私の考えは10月25日の日記に述べた通りであるが、哲学的な前提についての考えは、私の素人考えでも、お二人の専門家の見解でもそれほど異なっていないことが分かった。
 そもそもAが存在するというのは、Aではない非Aというものとの比較において認識されるものであろう。この世界がすべて一様であって何の性質も備えていないとすると、それは定義上は「無」と同じであり、存在しているとも存在していないとも言える。
 またAは、その周りの別の存在との間で何らかの作用があればこそ、存在していると確認される。周りに何の影響も及ぼさず、何の性質も持たないものは、存在していると言っても、存在していないと言っても同じことになるため、冗長な概念として排除される。ちなみに、何かの物理現象を説明する上では「神の力」は何の影響も及ぼさない(もし及ぼしている作用があればそれは物理的に発見された新しい力となるので、「神の力」からは除外される)。但し、信心深い人が、神を意識しながら行動をする場合、神という存在はその人の行動の説明要因になるという範囲において「存在」している。

 「宇宙が始まる前から法則があったか?」については、いくつかの見方ができると思われる。
 まず、何らかの物理現象に規則性があるとすれば、それはなんであれ法則と呼べるだろう。逆に、その変化が渾沌としていていかなる規則性も見出されないとするなら、法則は存在しない。そういう現象は、仮に存在していても、「渾沌」と呼ぶ以上には言語的に記述することは困難であろう。
 いっぽう、何らかの規則性があるとするならば、それを言語化できる生命体がいれば、何らかの法則を記述できるようになる。10月25日にも述べたが、もし、ある世界に識別可能は固形物が複数存在していたとする。そうすると、その世界の住人は、その固形物を数えることができ、そこから整数論を体系化することができる。その場合、その宇宙がどんなものであっても、あるいはその住人がどんな形をしていたとしても、素数の分布は同じものになるはずだ。
 数学の理論というのは、実際に存在する物や作用ばかりでなく、架空の存在についての関係を論じるツールとして発展しており、宇宙誕生の瞬間、あるいはそれ以前の状態についても、何らかの関係や作用を数式として表すことはできるとは思う。それが今の世界の物理法則と異なる場合、その真偽を実験や観測で確かめることはできないが、よりシンプルな数式から、宇宙の誕生を導くように式を変形させることは不可能ではないと思う。しかも単なるつじつま合わせ・近似式ではなくて、そこで想定された変数や定数から未知の素粒子や作用が発見されるという可能性はありうると思われる。

 次回に続く。