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10月24日の日記で記したように、11月1日から30日まで、岡山市内で ●【第4弾】がんばろう岡山市!スマホ決済最大20%が戻ってくるキャンペーン が始まった。さっそく、ウォーキングのついでに近隣の食品スーパー「マルナカ」に寄ってみたが、なんと、マルナカではそもそもPayPayやd払いによる支払いを扱っていないことが判明した。マルナカはWaonポイントやWaonカードを推奨しており、どうやらこのイベントには参加しない見込みである。ということで、PayPayとd払いのアプリで、改めて近隣の参加店舗をチェックしたが、スマホの画面が小さすぎる上に、検索の方法によって表示されたりされなかったりでよく分からないところがあった。概ね、近隣のセブンとローソン、ザグザグ、ダイソー、天満屋ハピーマート、天満屋ハピータウンなどは含まれているようだが、支払い前に確認する必要がありそう。いっぽう、ホームセンターは今のところ確認できていない。 |
【小さな話題】岡山の基礎をつくったリーダー達(1)宇喜多直家 10月30日にテレビせとうちで放送された、 プライド【岡山城リニューアルオープン特集 岡山の基礎をつくったリーダー達】 を録画・再生で視た。岡山に移り住んで30年余りになるが、歴史の流れの中で岡山がどのように作られたのかについては考えたことが無かった。この番組では、
最初に取り上げられたのは宇喜多直家(1529-1581)であった。リンク先にも 古くは近世初頭の著述家・小瀬甫庵が自身の著作『太閤記』で、斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人としており、また出雲国の尼子経久・安芸国の毛利元就と共に中国地方の三大謀将と言われる。歴史書の「和気絹」でも記されているとおり、金光宗高をはじめ松田元賢、後藤勝基のように、自分の娘や姉妹、或いは親類の娘を養女として縁戚関係を結んだ人物でも切腹に追い込んだり攻め滅ぼしたりする謀殺的な行いがみられ、それらの所業のため異母弟からさえ恐れられていたとも伝わる。秀家において特筆すべき点は毒や銃を用いた暗殺を用いたことにある。と記されているように、一般に宇喜多直家は悪人や下克上の典型として評されているが、そうした悪いイメージが広まった一因は、忠義を尽くすことを重んじた江戸時代の岡山藩士の価値観からみて、主君をも滅ぼすとした直家の振る舞いが相容れないものであったことにあると説明された。 暗殺を多用した直家の真意は「一殺多生」という言葉に表されているという。【暗殺という手段を使えば】一人を殺すことにより、他の多くの命を失わなくても済む。総力戦で多くの命を失うよりも、トップ1人を倒すことで多くの命を救えるということだ。直家は全国から嫌われているというが、家臣は離れていないことにも留意する必要がある。 さて、その宇喜多直家は現在の瀬戸内市邑久町で生まれたが、幼い頃に家が没落し苦労するも、一代で戦国大名になった。宇喜多家は砥石城でいったん滅んだが、のちに備前・美作に50万石という領地を得るまで出世した。当時未開だった岡山に目をつけ、発展の礎を築いたという、ポジティブな面にも目を向ける必要がある。 そうした大出世を可能にした理由としては、備前福岡(現在の瀬戸内市長船町)や西大寺(岡山市東区)の商人とのつながりがある。宇喜多直家が後に石山城(岡山城の前身)を造った時には、備前福岡や西大寺の商人やを連れて行って町を作らせた(但し諸説あり)。それらは今の表町商店街や、新西大寺町商店街になっているという。こうして直家は、商人のチカラと経済のチカラを使って城下町をつくり戦国大名として発展した。岡山に今ある地名には、他にも直家の時代まで遡ることのできるものがたくさんあり、直家の先見性、合理的な考え方はもっと見直されるべきであると説明された。岡山という場所をさらに大きくしたのは息子の宇喜多秀家であるが、岡山という場所を選んで子どもに託したという点で直家の影響は大きい。。放送では、宇喜多直家から学ぶべきこととして「悪役の信念」という言葉が取り上げられた。 ウィキペディアでもう少し詳しい情報を仕入れておくと、まず宇喜多直家のほうは晩年は毛利氏とは手を切って織田信長に臣従したが、1581年、直家は毛利氏との戦いのさなか、岡山城で病死した死因は「尻はす」という出血を伴う悪性の腫瘍であったという。 息子の宇喜多秀家(1572-1655)のほうは、1581年に直家が病死したあとに家督を継ぎ、織田信長から本領を安堵された。豊臣秀吉時代、元服した時に秀吉より「秀」の字を与えられ、猶子となったが、秀吉の死後1599年には宇喜多騒動が起こり、その後、関ヶ原の戦いで西軍主力の1万7000人を送り込んだものの壊滅。八丈島に流刑となったあと1655年に84歳で死去。関ヶ原では敗れたが、関ヶ原に参戦した大名としては最も後まで生きたという。 次回に続く。 |