じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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  • 写真上:Googleストリートビューで見ることのできた「青い洋館」/そして、水色の家は残った 〜“世田谷イチ”古い洋館の135年物語〜
  • 写真下:洋館の近くで行われた世田谷松陰幼稚園の運動会。モノクロ写真を着彩アプリで着色。1958年10月12日。なお、↓の放送では、1934年に、洋館の近くの小学校で撮影された運動会の写真が紹介されていたが、この時期に洋館の近くに存在していた小学校は世田谷小学校のみであったと思われる。いっぽう、幼稚園の運動会が行われたのは、そののち1960年に創立された城山小学校の敷地であったと記憶している。
     私が子どもの頃は、私が卒業した若林小学校のほか、花見堂小学校、山崎小学校、城山小学校、世田谷小学校が密集しており、なぜこんなにたくさんの小学校が乱立しているのだろうと不思議に思ったことがあった。現在は少子化のため統合が進んでいるようだ。
↓の記事参照。


2023年2月6日(月)



【小さな話題】そして、水色の家は残った 〜“世田谷イチ”古い洋館の135年物語〜

 2月3日にNHK-BSPで放送された表記の番組で、東京・世田谷区の豪徳寺の近くにある水色に塗られた「世田谷一古い洋館」が取り上げられた。この放送は私にとって2つの点で驚きであった。

 1つ目は、洋館の所在地が、私が生まれ育った世田谷区若林の生家から徒歩圏内にあったということ。この洋館自体を直接見た記憶は無いが、小学生の頃は、近くの豪徳寺や世田谷城址公園(城山公園)にはよく遊びに行ったものである。このほか、すぐ近くの空き地(城山小学校敷地?)では幼稚園の運動会が行われたこともあった【↑の写真参照】。これほど馴染みのあるエリアにこのような洋館があったというのは驚きであった。

 もう1つは、放送で紹介された内容に関するものであるが、この洋館は複数の著名人と関わりがあった。ま、このレベルの建物や広い敷地を所有するためには相当の財力が必要であるゆえ、必然的に購入者は著名な富裕層に限られるとは推測できるが、リーマン予想の権威、黒川信重先生も暮らしたことがあったというのは驚きであった。

 以下、放送内容のメモ【過去の人については敬称略とさせていただいた】。

 まず、この建物は以前より、かつての東京市長・尾崎行雄の旧宅であると伝えられてきた。しかし、今回の放送を通じて、この家を建てたのは同姓であるが別人の尾崎三良であったことが判明した。リンク先にあるように、尾崎三良はロンドン留学中に語学教師を務めたウイリアム・モリソンの娘バサイアと結婚したが、5年後に離婚し、妻子を置いて帰国。その後、離婚同意書に基づいて1887年、娘のセオドラが日本で暮らすことになった。その翌年の1888年に麻布六本木町31番地にこの洋館が建てられたことが尾崎三良の『尾崎三良自叙略伝』の中に記されている。このことから、洋館は娘セオドラのために建てられたと推測される。

 しかし、この洋館は尾崎行雄と無関係ではなかった。セオドラの娘さんの相馬雪香さんの回想によれば、セオドラが洋館に暮らしていた頃、英語の分からない郵便配達夫が、「ミス」と「ミスター」を間違えて、セオドラ宛ての手紙を同姓の尾崎行雄の所に持っていくことがたびたびあったという。尾崎行雄はわざわざ、麻布にあったこの洋館を訪ねてそこで初めてセオドラに会った。こうして交際が始まり、尾崎行雄とセオドラは結婚したという。

 麻布にあった洋館は関東大震災を耐え抜いた。所有者は、青山学院で英文学を教えていた岡田哲蔵に移っていたが、どういう経緯で所有権が移ったのかは放送では紹介されなかった。岡田哲蔵は、1933年、麻布六本木にあった洋館を現在の地の豪徳寺ちかくに移築した。わざわざ移築した確かな理由ははっきりしないように思われるが、当時は「事務所は都心に 住まいは郊外に」という移住ブームがあったようだ。また、小田急線の開業も郊外での暮らしを後押しした。
 岡田哲蔵は世田谷二丁目南町会の町会長も引き受け、戦時中の軍部の要求に抗い、週報をたてに町内会員の利益を守ったという。

 岡田哲蔵が1945年に洋館で息を引き取った後、岡田家は洋館の空き部屋を間貸しするようになった。その下宿人の中に、岡田家の親戚でもあった数学者の黒川信重さんと、姉で書道家の飯田和子さんがおられる。2人は二階の20平米の角部屋をカーテン仕切って暮らしていたが、社交的な和子さんは外出することが多かったが、黒川さんは部屋で数学の難問に向き合っていたという。
 ちなみに、黒川信重さんは1952年生まれなので私と同学年にあたる。高校時代、『大学への数学』の「宿題」や「学コン」でお名前をお見かけしたことがあったと記憶している。

 写真家の潮田登久子さんは1978年からしばらくの間、夫と子どもの3人で洋館に暮らしていた。当時この洋館には、家主を含めて5世帯が住んでいて、いつも大勢の子どもたちに溢れていたという。当時は2階の部屋にもガスが配管され、1階から水を運んで調理できていた。もっとも、風呂はなくトイレは共用。テレビは無かったという。潮田さんの娘のしまおまほさんは、2階の窓から隣の家のテレビを視ていたという。
 その後のバブルで世田谷の地価は高騰したが、家賃は2万円のまま。「時代を先取りしたシェアハウス?」とも評された。

 そうした長い歴史を持つ洋館も、2019年春に取り壊しの話が出てきた。その保存活動に尽力したのが漫画家の山下和美さんや、漫画家仲間の笹生那実・新田たつお夫妻たちであり、クラウドファンディングにより所有権を獲得。現在は建物の保存・管理のためのクラウドファンディングが行われているようである。