じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



06月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



クリックで全体表示。

 インチョン空港で乗り継ぎ待ちをしていたところ、ジャンボ機の大きな機体が着陸してこちらに近づいてくるのが見えた。聞いたところによれば、この飛行機はアシアナ航空の成田−インチョン便であり、2023年5月に期間限定で投入されているという。このB747-400は、同社が保有する最後の1機となる。海外に出かける機会が減ってきたこともあり、これが私にとってはジャンボ機の見納めになるかもしれない。
 なお、私自身はジャンボ機には5回ほど搭乗した記憶がある。このうち1回、ビジネスシートに無料アップグレードされたことがあった。エコノミーシートで搭乗する限りにおいては、ジャンボ機であるからといって特段の快適感は無かった。



2023年6月2日(金)



【連載】ブラタモリ「京都・東寺」(1)/京都の斜めの道路

 5月13日に初回放送されたNHKブラタモリ

●#233 「京都・東寺〜東寺は京都のシンボル!?〜

を録画再生で視た。京都には学部・大学院・研修員時代に15年間暮らしたことがあるが、日常の行動範囲はもっぱら左京区・北区・上京区に限られており、その期間に東寺を訪れたことは一度も無かった。過去記録を検索したところ、東寺に拝観したのはどうやら2012年2月の1回きりであり、五重塔の特別公開に合わせて訪れたようであった。

 放送の冒頭に紹介されていたように東寺は世界遺産に指定されており、国宝の数は25件81点にのぼる。東寺が創建されたのは796年であり、平安京の中で最も古いお寺であるという。講堂には21体の像があるがうち15体が国宝に指定されている。室町時代に火災があったが運び出されたため難を免れた。

 東寺にはもう1つ有名な建物として五重塔があるが、じつは現在は5代目であり、江戸時代に徳川家光の寄進によって再建されたものである。高さは約55mで、日本で一番高い木造建築である。上にも述べたように、私自身は一度だけ内部を拝観したことがあった。五重塔はお寺の南東の端に建てられているが、その理由は外から見えやすくするためであったと考えられている。平安京の真ん中には朱雀大路が走っており、その両側に東寺と西寺が左右対称の位置に建てられた。

 西寺は現在では存在しないがその痕跡が西寺公園の中に『史蹟 西寺趾(しせき さいじあと)』として残っているという。なお、マップを見ると西寺公園の近くには『西寺』があるが、これは浄土宗西山禅林寺派という別のお寺であるようだ。

 西寺は平安時代に火事に遭って消失した。今でも焼けた瓦が残っているというが、何の保護もされずに足元にゴロゴロ転がっているのだろうか。ここで生じる疑問は、東寺も西寺も何度か火災に遭っているにもかかわらず、なぜ東寺はそのたびに再建され、いっぽうの西寺は再建されることなく消えてしまったのかという点にある。放送によれば、その原因は朱雀大路より西側の地域の地盤の悪さにあったようだ。放送によれば、平安京の東側は鴨川の扇状地になっていて標高が高く水はけが良いが、旧・西寺を含む平安京の南西部は鴨川の扇状地から外れていた。またその西にある桂川は、亀岡盆地で土砂がせき止められるため京都盆地では扇状地を作らなかった。そのため標高が低く不安定な土地になった。じっさい、鎌倉時代になると、平安京の朱雀大路西側は人があまり住まない地域になっていった。朝廷の財政難もあって、西寺が再建されることはなくなり、その後、東寺が都のシンボルとして役割を強めていった。

 東寺の南側を東西方向に走る道路(九条通)は、平安京が作られた東寺の『九条大路』に比べると南西方向に斜めに曲がっている。これは、京都と下関・九州方面を結ぶ西国街道につながったためである。平安京ができた当時、人々は羅城門から朱雀大路を通って都の中心部に向かっていたが、平安時代の中頃には羅城門は無くなり、鎌倉時代になると西寺も無くなり、人々は東寺の五重塔の南東角から左に曲がって大宮通に入って中心部に向かうようになったという。これによって、東寺の五重塔は都の入口を示すシンボルとなった。

 ここでいったん私の感想を述べさせていただくが、西寺趾や羅城門跡はまだ一度も訪れたことがない。景観的には大した場所ではないが、かつての平安京をしのぶためにぜひ一度は訪れたいと思っている。
 大宮通に関しては、京都に住み始めた学部生時代から疑問に思っていたことがあった。それは、西側にある千本北大路から千本通を南に下がると千本三条で道路が細くなり、四条大宮まで、斜めにはしる『後院通り』でつながっていることであった。碁盤の目に造られたはずの平安京なのに、なぜこのような斜めの道になったのだろうか? ネットで検索したところウィキペディアにも「京都市では珍しく斜めに走る通りである。 」という記述があったが、歴史は比較的新しいようであった。
明治時代に京都市三大事業の一環として路面電車敷設と同時に街路建設を行う際、千本三条以南の千本通は住宅街ではなく、いわば田舎であったため、京都市はそのまま千本通を南下しても利益を出す事が難しいと考え、[要出典]四条大宮以南の大宮通りを拡張、その連絡道路として斜めに道路を建設、1912年6月11日、京都市電気軌道事務所(後の京都市交通局)発足及び千本線、大宮線を開通させ運行を開始した。昭和3年の京都市告示第252号による路線名改称時までは「車庫前通」と呼ばれていたが、これ以降に後院通となった。
時々、千本三条にあった材木店が千本三条以南の拡張を認めなかったとあるが、それを示す文献がなく、そのような事実は存在しない。


 ちなみに、京都市内で珍しく斜めに走る通りとしては紫明通があり、高校駅伝や都道府県対抗の女子駅伝のコースとして知られている。こちらは、
第二次世界大戦中の防火帯設置のための強制疎開により、堀川通や五条通と同様に道幅は広い。もともと蹴上から松ヶ崎、下鴨を経て、賀茂川をサイフォンでくぐり、堀川へ抜ける琵琶湖疏水分線の経路の一部であったのだが、戦後の河川整備によって水路が閉じられていた。
2002年度から堀川水辺環境整備事業という名称で、琵琶湖疏水分線の水を使った親水公園を中央分離帯に整備する計画がスタートした。2009年3月29日に通水式典が行われるとともに通水が開始され、堀川の水流が復活した。
という歴史があり、後院通りと同様に比較的新しく造られた道路であるようだ。

 次回に続く。