じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 半田山植物園で見かけたメスのオオシオカラトンボ(たぶん)。メスのシオカラトンボはムギワラトンボとも呼ばれているが、オスに比べると見かける回数が少ないように思う。
 なお、半田山植物園ではシオカラトンボとオオシオカラトンボの2種が棲息しているが、オオシオカラトンボのほうが数が多いようだ。

2023年7月31日(月)



【小さな話題】NHK朝ドラ『らんまん』の視聴意欲低下

 NHK朝ドラ『らんまん』は、NHK-BSPで朝7時半からの放送を毎回録画し、気が向いた時にまとめて視聴しているが、この2週間あまりは未視聴の回がたまってしまった。土曜日放送のダイジェスト版を先に視てから、月曜から金曜の5回分を少しずつ再生しているが、追いつくのがやっとになってきた。

 この視聴意欲低下の原因は、作品自体がつまらなくなったというわけではない。恋愛成就で一段落したあと、研究活動や大学内の軋轢が多く描かれるようになったことにある。私自身も、18歳で大学に入学してから、院入試、大学院生活、オーバードクター、博士号取得、最初の就職、別の大学に異動、助教授から教授への昇任、65歳で定年退職...というように47年間も大学に身を置いた人生を歩んできたが、率直に言って楽しかったことはあまり無かった。「もし人生をもう一度やり直せるならどういう道を選びますか?」と問われたとしても、大学での研究教育職に就きたいとは思わない。もっとも私は子どもの頃から一貫して人付き合いを好まない人間であり、一般企業への就職や客商売は到底無理。トレーダーズvoiceに出演しているような著名投資家になれれば万々歳だが、失敗すればホームレスとなりどん底生活を送ることになる。ポツンと一軒家で紹介される山村生活も魅力的だが、じっさいに農作業をするのはそんなに甘く無いし、最寄りの集落の人たちとの人付き合いも大切で、自由気ままに生活できるわけではない。

 ま、何はともあれ、ドラマを視ていると、研究室への出入りを禁じられた主人公万太郎と、私自身の辛かった時代、特に6年間に及ぶオーバードクター時代【大学院5年間を終えたものの常勤職に就けない時期】の記憶が重なり、いい思いはしない。しかも、オーバードクター時代に受けた屈辱的な経験の数々は、たいがい夢の中に出てくるから始末が悪い。目が覚めているなら、瞑想でも何でもそれなりの手立てがあるが、夜に見る夢の内容まではコントロールできないのは辛いところだ。直近の「研究室への出入り禁止」ばかりでなく、万太郎が初めて東大の植物学教室を訪れた頃から、私自身が毎晩見る夢の中身も、なんだか大学の研究室を舞台にしたネタが増えてきたように思う。

 私が理解している限りでは、このドラマは、
  • 登場人物はみんないい人。一時的には衝突することがあっても最後は良好な関係を築き、他者の存在が自分の人生を有意義にしてくれたことを感謝するようになる。
  • 女性活躍。男性のサポート役ではなく、むしろ男性は、女性に導かれて生きるようになる。
というような思想に基づいて創作されているように思われるが、大学特有の体質や人間関係をネタとしてそのようなことがリアルに描けるかどうかは何とも言えない。

 もちろん、大学教員であっても高邁な識見を持ち、多くの弟子から尊敬を集めている人はいる。しかし、研究者として大学教員を採用する場合は、とにかく研究業績・能力が第一の基準となって評価されるため、人間関係面では、人付き合いを好まなかったり、相手(同僚、学生など)の気持ちを汲むことができない人も採用される。なので、そもそも大学内の人間関係をネタとしてハッピーエンドのドラマが創れるというのは、私にとっては信じがたいことである。

 ドラマのこの先の展開については全く分からないが、ウィキペディアによれば、牧野富太郎の実話としては次のような出来事があり、どこまでドラマに取り込めるのかは分からない。
  • 1890年(明治23年)、28歳のときに東京府南葛飾郡の小岩町で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
    しかし同年、矢田部教授により植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまい、『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまう。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった
  • 1891年(明治24年)、実家の岸屋がついに破綻し、家財を精算するために帰郷する。このとき当主の富太郎は、猶と番頭の井上和之助を結婚させて店の後始末を託す。
  • 富太郎は郷里の高知に帰郷中、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽の演奏会を開いて自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場農学校(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。
  • 1891年(明治24年)3月、矢田部教授は教授職を非職となる。1894年(明治27年)3月、非職満期により免官。
  • 1893年(明治26年)、矢田部非職後に東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三教授に呼び戻される形で助手となった。
  • ドイツ・ライプチヒ大学でベッファーに植物生理学を学んだ三好学が帰国後の1895年(明治28年)5月に帝国大学教授に就任。理学博士になる。
  • 1899年(明治32年)8月7日、矢田部元教授は鎌倉沖で遊泳中に溺死。
なお、上掲の三好学については、牧野富太郎自叙伝の中に、「三好学と私とは、仲がよかった。三好はどちらかというと、もちもちした人づきの悪い男だった。という記述がある。またドラマの徳永助教授のモデルとされる松村任三については、YouTubeに解説動画がある。

 余談だが、矢田部良吉の四男は、心理学ではよく知られた矢田部達郎