Copyright(C)長谷川芳典 |
※クリックで全体表示。 |
この時期になると、1本の花茎にたくさんの花をつけた日本水仙が見られるようになる。2月24日には、8輪咲きに続いて、9輪咲きを確認することができた。過去最多の11輪咲きには、まだまだ及ばない。 |
【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(3)『contingency』は偶然性か随伴性か?(2) 昨日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、 ●100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』 についての感想・考察。 昨日同様放送内容から外れるが、著書のタイトルに含まれていた『contingency』という概念について引き続き考察する。 さて、昨日は行動分析学の『随伴性』の概念について私なりの考えを述べたところであるが、それとはやや異なる『偶然性』にはどういう意味があるのだろうか。 まず、ウィキペディアによれば、偶然性には次のような意味がある【抜粋】。
以上に記されているように、『偶然』は決定論との関わりでしばしば問題になり、究極的には量子力学的な世界まで行き着くことになるとは思われる。しかし、少なくとも人間世界に限って言えば、『偶然』も『確率』も実用概念にすぎない。偶然は本質ではないが、偶然として扱ったほうが利便性が高いからそのようにしているという意味である。 そもそも確率の大きさなどというのも、当該の現象に対して観測者がどれだけの情報を得ているのかによって変わってくるものである。例えばAとBという2つの箱のうちのどちらかにコインが1枚入っていたとする。コインがどちらに入っているかというのは何ら不確定ではない(2つの箱の間をランダムに行ったりきたりするわけではない)。単に『無作為』であったというだけに過ぎない。この場合、観測者は「コインがAの箱に入っている確率は1/2である」と予測するだろう。しかしその後、Bの箱が空であると判明すれば「コインがAの箱に入っている確率は1.0である」というように予測を修正する。コインは最初から同じ場所にあって動かないが、予測をする時の確率の大きさの変化は、観測者(当てる人)がどういう情報を得ているのかによって変わっていく。これはモンティホール問題でも同様。『偶然』の大きさは確率の大きさとして表されるが、その多くは、(ほぼ)決定論的に決まる事象に対する主観確率ではないかと思われる。 我々を取り巻く世界は、無数に近い諸要因の複合的な作用により変化している。それらをすべて考慮に入れて決定論的に予測をたてるよりも、それら諸原因をひっくるめて確率現象として処理したほうが実用的であるがゆえに、敢えて『偶然』として処理している場合もある。
以上は『偶然』は主として実用概念であるという見方であったが、もちろんほんのささいな『偶然』がその後の出来事を大きく変えてしまうという場合もある。 歴史的な出来事は、大局的に見れば歴史の流れは必然と言えるが、偶発的に起こった干ばつ、大地震、疫病などによって、流れの速度や方向がある程度変わることもある。さらに、風が吹けば桶屋が儲かるとか、バタフライエフェクトも無視できない。ちょうどいま、NHKのBS4Kで大河ドラマ『篤姫』の再放送をやっているところだが、幕藩体制の崩壊が歴史的必然であったことは確かであったとしても、大政奉還後の新政府がどのような体制になったのかということについては、いくつかのバタフライエフェクトが働いているように思う。 生物進化は、よりうまく適応した種だけが進化したわけではない。自然選択の結果ばかりでなく、「運良く生き残った」ことも大きな要因になっている。 最後に個人の人生はどうか。これまた、大学受験時の進路選択、就職、配偶者、子育てというすべてにおいて『偶然』がかかわっていることは間違いない。これは、いま生きている『私』は、一本道の人生の必然の結果では無く、1つの分岐が2通りであったとすると、人生では2の100乗通りぐらいの変化の可能性があり、いまある私は「2の100乗通り」の分岐のうちの1つとして存在しているに過ぎない。過去を辿ればあたかも一本道であるように錯覚してしまうが、それは残りの分岐を想像できないからだ。もっとも、だからどうだというものでもない。それなりに努力したり苦難を克服したこともあったはずだから、単に「今の人生は、なるようになった結果」と割り切ってしまうのは勿体ない気もする。 次回に続く。 |