【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(12)第2回 「公私混同」はなぜ悪い?(2)アイロニストとは何か?
3月8日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、
●100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』
についての感想・考察。
本日は、前回初めて登場した『アイロニスト』や『アイロニズム』について考えてみることにしたい。まず、Bingに「哲学でいう『アイロニスト』とはどんな人ですか?」と尋ねたところ、以下のような回答をいただいた。
**アイロニー**(または**イロニー**)は、表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じることを指します。この言葉の語源はギリシア語の「エイローネイアー」で、「虚偽、仮面」または「よそおわれた無知」を意味します。日本語では、仏教用語の「皮肉骨髄」になぞらえて、換喩的に「皮肉」と訳されます。また、一般的には「反語」や「逆説」などの意味でも用いられます1。
アイロニーは歴史的に様々な用法を持つ言葉であり、大きくは**修辞学**と**哲学**の二つの意味があります。
1. **修辞学**:
- 修辞学では、アイロニーは、本当の考えや意図と違う考えをほのめかすことによって伝える手法です。他人を嘲笑したり諷刺したりすることを目的として用いられることが多いです。また、ドラマティック・アイロニーという使われ方もあります。これは、観客が知っている真実を喜劇に登場する人物だけが知らず、登場人物たちが右往左往する様子を滑稽として笑う点で、真実を隠すという意味で「アイロニー」です。
2. **哲学**:
- 哲学では、ソクラテスが「産婆術」と称して、自分が知っていることをあたかも知らない振りをして若者と議論する立ち振る舞いを示しました。このようなソクラテスの挙動は道化振りとして批判されることもありますが、後にシュレーゲルは、これが自我を解放するための手段になるとして注目しました。この哲学的アイロニーは、ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)と呼ばれます。
ソクラテス的なアイロニーは、あえて無知を「装う」ことで、言葉が通常の意味から離れ、哲学的な探求へと進むことを目指します。キルケゴールも哲学的アイロニーについて批判的な態度を取りましたが、このアイロニーは真理を探究するための手段としても注目されています123.
(1) アイロニー - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%BC.
(2) 公私混同 - Life Goes On - gooブログ. https://blog.goo.ne.jp/dearmadonna/e/1bfcef54c706c544b8508957114714a2.
(3) 橋本努「リチャード・ローティを脱構築する」 - 北海道大学. https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Richard%20Rorty.htm.
(4) office-ebara - 理論的関心のある人のために-哲学の旅第6回 .... http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=20.
『アイロニー』は日本語では『皮肉』と訳されているが、上掲の回答やウィキペディアにも記されているように、
日本語では皮肉骨髄という仏教用語になぞらえ、換喩的に皮肉と訳した(皮肉は骨髄に対して本質的ではない)。その他、一般には反語、逆説などの意味でも用いられる。
という由来がある。『皮肉』は辞書的には、
- 【新明解】(一)〔相手を非難・批評する気持で〕事実と反対の事を言ったりして、意地悪く、遠回しに相手の弱点などをつくこと。(二)意地悪な様子。
- 【大辞泉】2 うわべだけなこと。また、そのさま。皮相。/3 遠まわしに意地悪く相手を非難すること。また、そのさま。当てこすり。「辛辣(しんらつ)な―を言う」「―な口調」
- 【日本国語大辞典】A うわべ。表面。理解や解釈の浅い所。/B (形動) 意地のわるい言動。骨身にこたえるような痛烈な非難。また、遠まわしに意地悪を言ったりしたりすること。また、そのさま。あてこすり。
というように悪い意味があり、皮肉屋は嫌われる傾向にあるように思われるが、ローティは、「本当に正しいかどうかはいつでも変わりうる」と考える人を「アイロニスト」と呼び高く評価したという。手もとに原書が無いので正確な引用はできないが、こちらの動画によれば、ローティがいう『アイロニスト』は
- 自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物
- 「アイロニスト」とは、自身がもつそうした終極の語彙について、歴史主義的に、そして唯名論的に考える人。つまり、自分の終極の語彙が絶対的に正しいとは考えない。【「歴史主義的」とは、自分の考えや信念が歴史的な偶然によってもたらされたものだと考えること。「唯名論的」とは、「実在論」の対義語であり、実在論がある言葉や概念は実在すると考えるのに対して、唯名論では自分の語彙が実在に近いという妄想を抱くことはない。】
- ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェといった人たちは「アイロニストであり、かつ理論家である」。彼らは、アイロニストでありながら、それ以上再記述されない「終極の語彙」を求める。
- プルーストやデリダはアイロニストとしての立場をわきまえている。
しかし、単なるアイロニストは、私的な生の問題・自律の問題にコミットできるだけの人であり、公的な問題へのアプローチが不足している。『偶然性・アイロニー・連帯』の第二部ではアイロニストが陥る問題について考察されているという。
ここからは私の感想・考察になるが、私自身は、もともと、自分の考えや信念というものは、自分が生まれ育った環境の中で各種の強化随伴性【←これこそが『contingency』の本質】や言語的な関係づけを通じて形成されたものであり、常に変わりうるものだと考えている。いずれにせよ「終極の語彙」と呼べるほど確かなものは持ち合わせていない。他の人のことについてはとやかく言うつもりはないが、一部の厳格な実践家、あるいはカルト宗教にマインドコントロールされた信者などを除けば、一般の多くの人々はそんなに強い信念は持たずに、周囲の変化に合わせて柔軟に生きているようにも思える。
放送でもこのあと取り上げられているが、アイロニストの振る舞いは、本音と建て前を上手に使い分けている人のようにも見える。といっても本音は絶対的なものではない。建前的な行動を続けていく中で本音そのものが変わっていくこともあるかもしれない。
公的な環境のもとではどうしても建前的な振る舞いが求められるようになる。客商売をする人やセールスマン、あるいは心理カウンセラーなどはそのように振る舞っていかないとやっていけないかもしれない。それが嫌いな人は、ポツンと一軒家で自給自足生活をするか【←それでも集落の中での互助は不可欠】、私のように、(妻との会話を除き)一日中、他の人とは殆ど会話せず、地域の高齢者向けの集まりへの参加は一切お断りし、対人交流はSNSでのあまり立ち入らない程度の情報交換程度にとどめるといった隠居人生活を続けるほかはない。隠居人生活はまさに「私的な生の問題・自律の問題にコミットできるだけの人」ということになる。ま、介護を受ける身になった時にはそれを続けるのは困難になるだろうが、できるだけその期間を短くするためにには、健康寿命を延ばす以外に手立てはあるまいと思う。
次回に続く。
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