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3月20日(春分の日)の岡山は、晴れたかと思えば突然強い雨が降り出すといった不安定な天気となり、最大瞬間風速17.9メートルを記録した。翌日3月21日の朝は、最低気温が0.1℃まで下がり、ベランダや車のフロントガラスなどにうっすらと積雪が残っていた。県北の千屋では、20日の朝から降雪があり最深積雪は21cmとなった。 |
【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(17)第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!(1)文学の力? 3月20日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、 ●100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』 についての感想・考察。本日より第4回の内容に入る。 前回までのところで、「同じ人間なのだから共に連帯しよう」と呼びかけるだけでは、争いを防ぐことは不可能であると論じられてきた。しかし、だから「人間は争いをエスカレートさせ、いずれ滅びる」ということにはならない。ローティが解決策として示したのは、文学の力であった。 第4回で取り上げられたのは第三部の『残酷さと連帯』であり、
ローティはまず残酷さを減らすためにはまず、犠牲者への共感を育むことだと論じた。しかし、苦痛は非言語的であり、残酷な行為を受けている人々は自分の言葉で直接語ることができない。「被抑圧者の声」なるものや「犠牲者の言語」なるものは存在しない。なので、犠牲者の状況を言語に表現する作業は別の人たちによってなしとげられなくてはならない。ローティによれば、それを行いうるのは、「リベラルな小説家、詩人、ジャーナリスト」であり、いっぽう「リベラルな理論家」は通例、それに長けていない。 ローティは、読者が犠牲者への共感をいだくためには、実証的な理論ではなく、感情に訴えるほうが機能を果たすと論じた。これは後に『感情教育』と名づけられた。出典は特に言及されていなかったが、放送ではこちらの論文のタイトルが表示されていた。 『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(1998年、中島・松川訳)の中でローティは、 「人間は他の動物よりも【知性や尊厳をもつと言うのではなく】はるかによく感情を理解しあうことができる。」と言うべきです。【中略】と論じた。 朱喜哲さんによれば、一般に文学は私的な感受性を豊かにするために役立ち、公共的なものは哲学や理論が分担すると思われているが、ローティはそれを逆転させ、小説など誰かを再記述する営み自体が公共的な目標のためにより役に立つと論じた。じっさいに文学が役立った例としては、『アンクル・トムの小屋』(1852年)が挙げられた。この作品は、非常に大きな世論を喚起し、それがきっかけとなって奴隷解放の機運が高まったという点で、文学が社会や世界を動かした事例になっていると解説された。 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、ある種の文学作品が読者に共感を与え、社会を動かすきっかけになったという例は確かにあるとは思う。もっとも、自慢では無いが私なんぞは日頃は文学作品を読む習慣が全く無い。また私だけでなく活字離れは広く進んでおり、もはや活字化された文学作品が社会に影響を与えるという時代では無くなってきているようにも思われる。もっともローティの趣旨から言えば、別段、印刷された本でなければダメだということにはなるまい。アニメやドラマでも人を動かす力は変わらないし、活字本よりもまさっているように思う。 なお、放送で挙げられた『アンクル・トムの小屋』(1852年)については、「白人に媚を売る黒人」「卑屈で白人に従順な黒人」といった批判も出ているようである。もっとも、文学作品の価値は、その作品が出された時の時代背景や当時の人たちの一般的な価値観とセットで評価されなければならないとは思う。もちろん中には時代を超えた「真実」が描かれたものもあるだろうが、それを強調しすぎると本質主義に陥ってしまう。 次回に続く。 |