じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 楽天版にも記したように、今年の3月は例年より寒い日が多く、最低気温が氷点下となった日は22日までで6回を記録した【画像左】2020〜2023年までの日数は0〜2回】。
 もっとも「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、(彼岸の中日からは少し遅れたものの)彼岸明けの23日以降はぐっと暖かくなり、この先10日以上にわたって最低気温が6℃以上の日が続く予報となっている【日本気象協会。画像右】。
 最低気温が5℃以上となれば、室内に退避させていた鉢物の観葉植物をベランダに出しっぱなしにすることができる。22日午後にはさっそく、ベンジャミンゴムの大鉢をベランダに移動した。ちなみにこのベンジャミンゴムは結婚前から妻が育てていたもので樹齢は45年前後になる。


2024年3月23日(土)





【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(19)第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!(3)ロリータ(続き)、理論を批判する理論

 3月22日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。

 まず昨日も取り上げた『ロリータ』の続き。こちらの解説動画では、『偶然性・アイロニー・連帯』では、『ロリータ』に先だつ第二部で、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェ、プルースト、デリダについての論考がある。このうち、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェは「アイロニストであり、かつ理論家」と呼ばれており、アイロニストでありながら「終極の語彙」を求めた。要するに、どの時代でも適用できる著作であり語彙であった。これに対して、残りの二者は
  • プルーストは、「終極の語彙」に頼ることなく、自分の周辺でできた偶然性に満ちた経験や言葉を駆使して、自律を図っている。ローティから見れば「アイロニストとしての立場をわきまえている」。
  • デリダが後半に執筆した『絵葉書』という本は、哲学的な思考を私事化し、理論化の試みを放棄したもの。これまたアイロニストとしての立場をわきまえている。
と評された。解説動画によれば、ローティは、ハイデガーやニーチェが考えたような哲学は、公的な問題よりも私的な生の問題のために読むのが賢明だと述べた。ここで「公的なもの―哲学」、「私的なもの―文学」というイメージがひっくり返る。そして、第三部で取り上げられるナボコフとオーウェルの文学は、文学というジャンルに属するものの、私的な問題ではなく公的な問題、とりわけ残酷さに対して目を向けさせてくれるものであるということであった。

 解説動画によれば、第三部で取り上げられている「残酷さ」は、単なる暴力とか虐待のようなあからさまな残酷さとは少し異なっている。ナボコフとオーウェルが目を向けさせてくれるのはアイロニストによる残酷さである。アイロニストの残酷さを示すことで、私的な問題と公的な問題は切り離すべきだというローティの主張を強めているという。

 ローティは、『ロリータ』を読めば、

●「自律的であろうと試み、特定の種類の完成をなしとげようと私的にとりつかれてしまうと、自らが(他者に)与えている苦痛や屈辱を忘れてしまいかねない、ということがわかる。

と述べている。そこでの最も中心的な残酷さは、ロリータへの理想的な他者像の押しつけである。小説では主人公ハンバートの手記という形がとられていることもあり、すべてはハンバート目線の描写となっており、ロリータが誘拐されホテル暮らしをしていた時にどういう気持ちだったのかはあまり描かれていない。じっさい、小説の後半で、ロリータはハンバートに憎しみを持っていたことがわかる。しかし読者はハンバートの巧みな美的表現によって結構ワクワクした気持ちになってしまう。ということで、放送で取り上げられた『カスビームの床屋』も、まずは、ロリータについての描写との対比を狙ったものであり、床屋への無関心を示した描写は二次的なものであるようにも思われた。

 解説動画によれば、ナボコフは喜びを得ることについて常軌を逸するほどの大きな力量を持っていたが、その反面、他者を憐れむ力量も持ち合わせていた。ローティは、

ナボコフは、恍惚と感じやすさは切り離すことができるばかりではなく、互いに排除しがちである、ということを十分すぎるほど知っていた。【中略】彼は自律の追求が連帯感と齟齬をきたすということもきわめて十分に知っている。【322ページ】

 解説動画では、『ロリータ』は少女性愛というセンシティブな問題を扱っておりきわめて特殊な事例であるように思われるが、「理想的な他者像のおしつけ」ということに注目するならば教育ママが息子の意志を尊重せずにむやみに勉強させる、というように日常生活にいくつもあるのではないかと指摘していた。

 解説動画では続いて第8章で取り上げられていたオーウェル『1984年』が解説された。ローティの主張を理解するためには『ロリータ』の章ばかりでなく『1984年』についてもしっかり読み解くことが必要かと思われたが、時間の都合からか、放送ではカットされていた。

 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、昨日も述べたように、私自身は『ロリータ』を読んだことがないので、ローティの解釈がどこまで的を射たものであるのかは何とも言えない。但し、ローティの主張を裏付けるために例示するという目的であるならば、もう少し別の作品を取り上げてもよかったのではないかと思われる。例えば戦記ものは皆そうだが、味方の活躍はより勇ましく描かれ共感をもたらすが、敵方の兵士たちが殺されていくことには無関心になってしまう。冬ソナのドラマなども、ユジンとチュンサンの純愛ドラマとしては美しいが、そのいっぽう、サンヒョクがどんなに辛い思いをしたのかということには目が向けられない。

 あと「これを言ったらおしまいよ」ということになるが、前回、引用させていただいた、
  • 感情を動かしたり、他人(ひと)の苦痛や残酷さに対してのシンパシーが何よりも大事。どんなに理論があっても、感情が無ければそもそも理論が機能しない。
  • 理論は分析には役立つが、辛いさなかの人は分析してほしいわけではないし、分析するということはしようがないということに近い。
  • 理論的な分析は現状の構造を分析するので、ある意味ではすごく残酷。こうなった必然性について考えるが、それって本当にその時に要るのか? クリアに分析したって役立たないし、そこでの苦痛の叫びに対して何も返してあげられない。
といった指摘は、実は1つの「理論」であって、自己矛盾をきたしている可能性がある。「理論だけではダメだ」と説くためには、共感をもたらすようなエピソードをたくさん取り込む必要がある。たしかに選挙演説などでは、立候補者は自己体験(←たぶん創作)を語ることで有権者の共感を得ようと必死になっているような特徴がある。もっとも、あまりにも感情に訴えすぎると、わざとらしく聞こえてしまう。

 次回に続く。