じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 岡山では3月23日から26日まで4日連続で雨が降り、合計降水量は96.5ミリ。3月ひと月の平年値82.5ミリをこの4日間だけで上回った。2024年3月のこれまでの雨量も156ミリで平年値の1.9倍となっている。
 写真は増水した旭川。3月26日夕刻に撮影。左奥の山は龍ノ口山。


2024年3月27日(水)




【連載】100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』(22)第4回 共感によって「われわれ」を拡張せよ!(6)モヤモヤは捨てきれない/ペッパーの世界仮説

 3月26日に続いて、2024年2月5日からNHK-Eテレで放送が開始された、

100分de名著 #136『偶然性・アイロニー・連帯』

についての感想・考察。本日で最終回。

 放送の終わりのところでは、会話を続けることの大切さ、私たちはもっと感情的な紐帯からスタートできないのか、それこそが連帯のよすがになるのではないか、と解説された。朱喜哲さんは、ウクライナの首都の呼び方が、ロシア語読みの『キエフ』からウクライナ語の発音に近い『キーウ』に変更された事例をあげておられた。この変更には「あなたたちが大事に使っている言葉を『私たち』も使いますよ」という気持ちが僅かではあるが込められており、「ウクライナで苦境に立たされている人たち」=「『キーウ』という言葉を大事にしている人たち」も「われわれ」の一員として考えることができる、そういった想像力を持つきっかけになっているのではないかと説明された。
 このことについて伊集院さんからは、「いっぽうで、あまりにロシアの言い分を聞かないまま来ているような気がする」とコメントがあったが、朱喜哲さんは、

「それぞれにもこんな言い分があるよね。これってどっちにも歴史があるよね」というような話は理論的な分析としてはありうるが、ある種の現状追認になりかねない。今起きている残酷さをどうやって少しでも減らすことができるのか、その時にはまず犠牲者の側のほうにどれだけ感情移入をして、そこに対して今起きている残酷さを少しでも取り去ろうと思えるか、ということが連帯の優先順位として考えられる。

と説明された。

 いちばん最後のところでは、伊集院さんから

4夜の最後にまだモヤモヤが残っているのは、どこかで100%の言葉を貰えると思っている自分たちがいる、でも結論は100%の言葉は無い、100%正しい人もいないし100%正しいシステムもないから、臨機応変にやりながらなるべく苦しい局面を少ないようにしていく、ということが何となく分かった。

というコメントがあり、朱喜哲さんからは、

バランスを取り続けるしかない、というのがローティのある種の結論になっている。「絶対的に答えがある」という『絶対主義』『客観主義』の立場で「これがある」としがみつくと非人間化が生じたり正しさを背負ってしまう。その一方、「何でもアリ」「どっちもどっち」という『相対主義』では、あらゆるものが野放しになってしまう。「どっちにも行っちゃダメだよ」、どっちにも倒れ込まないようにバランスを取るために言語を分析し、これって危なっかしいよという注意を出したりする、正しさだけを追い求めるのではない形で会話を続けることを考えたのがローティであり、反逆者と言われながらもそのように哲学を変えていった。

と結論された。




 ここからは私の感想・考察になるが、まずは、伊集院さんがモヤモヤとコメントされたのと同様、私もまた4回の放送を視聴してもモヤモヤが消えないというのが素直な感想である。放送でも取り上げられたウクライナ問題、その後勃発したパレスチナ問題、また最近では注目されることが少なくなってしまったミャンマーの問題なども皆そうだが、残念ながら会話を続けるという形では平和や自由が取り戻せそうには思えない。いずれの場合も、最後は軍事力が物を言う。そして次に第三次世界大戦が勃発した際には核兵器使用による放射能汚染が地球規模で広がり、仮に生き残った人類がいたとしても放射能汚染による変異で子孫を残せなくなりいずれ滅亡する恐れが大きい。ま、こういう危機は私が子どもだった頃の冷戦時代から指摘されており、いまのところどうにかこうにか局地的な戦争にとどまっていたが、50年後、100年後まで平和が続くかどうかは何とも言えない。

 あくまで放送から知り得た範囲の知識に過ぎないが、(紹介された限りでの)ローティの考えがイマイチ説得力を持たないように感じるのは、けっきょく、明確な行動指針のようなものが示されず、のらりくらりと中立的な立場をさまよっていくのと大して変わりがないように思えてしまうからかもしれない。じっさい、ローティの著作や評論活動などの影響で世界がここまで変わったというような話や、またローティ自身が文学を通じて何かを訴えたというような話も聞かない、理論的な分析ではダメだと言いながら、ローティがやってきたのは文学作品や社会現象についての理論的分析ばかりではなかったのか、という印象が残った。

 なお、このWeb日記ですでに述べたことの繰り返しになるが、そもそも『絶対主義』と『相対主義』の間の中立的な立場のようなものが存立しうるのかについては、やはり納得できないところがあった。『絶対主義』が「これしかない」、『相対主義』は「何でもアリ」だとするならば、そのどちらにも配慮する立場は、「どちらもアリ」、どちらも受け入れない立場は「どちらもダメ」ということになる。しかし、「どちらもアリ」は広義の『相対主義』であり、「どちらもダメ」は全否定であって何も示せないことになる恐れがある。ま、私のような隠居人が、茶飲み話として「あれもダメ、これもダメ」とケチばかりつけているぶんには害は無いが、何かをめざす若者がそれでいいのかという懸念は払拭できない。
 ということで、私としてはペッパーのいう世界仮説のほうがより説得力があるように思われた。またこの分類に基づいて発展し、徹底的行動主義の哲学的基盤であるとも主張されている機能的文脈主義の考え方を保持していきたいと考えている。