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9月9日(月)の夜はよく晴れて、南西の空に月齢6.4の月が沈む様子を眺めることができた。月の入りの方位はかなり南側に偏っており、国立天文台によれば240.7°となってた。これは冬至の日の前後の日没の方位241.7°より南にずれており、この方位に太陽が沈むことはない。なお今月の月が最南となるのは9月12日で、月の入りの方位は234.2°となっていてさらに南側。 ちなみに、今年の中秋の名月は9月17日、満月は9月18日で1日ずれている。9月18日には月が最近(22時22分、33′26″)となり、18日にお月見をすればいちばん大きな月を眺めることができる。 |
【連載】『3つの自己』の再考(5)概念化された他者(2)他者を概念化するメリット、デメリット 8月30日に続いて、「概念化された自己・他者」についての考察。「概念化された自己」を考える前にまずは「概念化された他者」について考察する。 前回も述べたように、私たちのあいだの人づきあいというのは、同一人物として物語化された相手とのお付き合いということになる。今ここにいる生身の人間同士としてではなく、日々の交流を通じて特徴づけられた概念的存在同士として語り合い、協力しあい、時には喧嘩をしたりしている。喧嘩をしてもすぐ仲直りできるのは、両者がお互いに「あの人はいろいろ欠点もあるが全体としていい人だ」と概念化されており交流を続けることがメリットをもたらしているからにほかならない。もちろん、すべてがそうなるわけではなく、時には「あの人は多少の長所はあるが全体としては私にとって悪い人だ。交流を続けてもデメリットのほうが大きい。」というように概念化され、絶交状態に陥ることもある。 結婚した時には仲の良かった夫婦が破局を迎えたときにしばしば言及されるのが「性格の不一致」である。本来は妻も夫もそれなりに柔軟に行動できるはずなのだが、「性格」という仮面をかぶせて相手を概念化し、離婚が必然であるかのように合理化している。もともと妻も夫もそれぞれ欠点の多い人間であり、いちいち短所ばかりに目を向けていたのではうまくいくはずがない。不倫とか、DVとかいった特別の事情があれば別だが、普通に暮らしている夫婦は「性格の不一致」などと理屈をこねて簡単に別れるようなものではない。もちろん(一部の?)アメリカ人などのように、離婚・再婚を繰り返しながら最善のライフスタイルを選んでいくという人生もあるとは思うが...。 前回も述べたように、昨日と今日の他者を同一に扱う行動自体は、人間以外の動物にも当てはまると思われる。私たちは環境世界の個々の刺激ではなく、よく似たひとまとまりの刺激に対して、ひとまとまりの同じような反応をしながら、環境に適応している。個別に対応する場合に比べて、そのほうがより効率的に、かつ迅速に対処できるからである。どのように「ひとまとまり」を作るのかは、それぞれの種や個体にとっての有用性に依存している。例えば、犬に咬まれた人はイヌの仲間の動物を全て怖がるようになる。いっぽう犬好きの人は犬を撫でたり抱っこしたりするが、それでも野犬やオオカミの群れは警戒するだろう。 こうした分類自体は言葉無しでもできる。飼い犬は飼い主やその家族をそれ以外の他人と区別するが、別段、仲間という概念を持っているわけではない。動物は単に、昨日と今日の刺激状況や文脈が似ていることで同じように反応しているだけであり、そうでなければ別人扱いされることさえある。動物園の飼育員がいつもはおとなしいトラに突然襲われるという事故も、何らかの文脈の違い(飼育員の服装やニオイ)が原因になっていたと推測される。ということで、他者を概念化することは言語行動に依存している。すでに亡くなった人や、小説や映画の登場人物なども生身の人間と同じように概念化され、日々の行動に影響を与えている。 人間が他者を「友達」、「嫌いな人たち」、「自分の敵」、「自分には関係ない人たち」、というように分類するのも、それ自体は言葉無しで可能。ただし、言葉があることでそれらの分類はより固定されてしまう。例えば、いったん敵だと決めつけてしまうと、簡単には友好関係に戻らなくなってしまう。 言葉はまた、関係フレームによってさまざまな新たな関係反応を派生させる。概念化された他者との付き合いも、その影響を強く受けている。 さて、他者の概念化は、言葉の力によって、非現実的なレベルまで拡張されることがある。片思いの相手に自分の理想とする異性像を重ねてしまいストーカーになるのもその1つ。また、相手のちょっとした行為がきっかけとなって、相手の全人格を否定するということもある。 さらには、実在しない他者の概念化もある。亡くなった人の霊を祀るとか、天国にいると仮想するような場合。そして究極の概念化が、神や仏を信じることだ。私自身は無宗教なので、そういう存在は全く信じていないが、現実生活を著しく脅かさない限りにおいては、神仏を信じる日常も別段悪くはないと思っている。数学に喩えるならば、この世界は客観的に見れば実数世界。しかし個々の人間が見ている世界はそれを概念化した複素数平面のようなもの、つまりありのままの現実を実数とすれば、それに概念化を施した部分が虚数であり、私たちは他者を複素数として見ていると言える。であるならば、この複素数平面では、実数部を持たない虚数だけの存在があっても不都合とは言えない。それが、亡くなった人の霊や神仏に相当する。虚数が存在するかどうかという議論よりも、概念化した世界をより豊かにするためにどのような虚数でそれを補完できるのかを考えたほうが、より建設的であるかもしれない。 次回に続く。 |