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9月17日〜18日の夜はよく晴れ、中秋の名月の月の出(写真上)と月の入り(写真下)の両方を眺めることができた。秋分の日の頃の満月(今年は9月18日11時34分)は、月が赤道を通過するため(今回は18日の20時14分)、真東から月が昇り真西に沈むようになるが、月の出・月入りの瞬間と満月の瞬間に時間差があることと、月の公転軌道のずれによりピッタリにはならない。
国立天文台のこよみによれば9月18日の月の出の方位は91.0°【真東は90°】、月の入りの方位は264.3°【真西は270°】となっていて多少のずれがある。 |
【小さな話題】『源氏物語』をなぜ学ばなければならないのだろう?(1) 9月に放送されている、 ●NHK 100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” を毎回、録画再生で視ている。直近では9月16日初回放送の (3)「源氏物語」と「もののあはれ」 を視たばかりである。しかし、これまでのところ、『源氏物語』の原文はもとより、ウェイリー版の日本語訳、あるいは従来から刊行されている現代語版をぜひとも読みたいという気持ちにはなっていない。 自慢するような話ではないが、私は、中学、高校を通じて、主要5教科の中では古文が最も苦手で嫌いな科目であった。中学で習うという竹取物語、枕草子、徒然草、平家物語、おくのほそ道などは内容が面白いのでそれなりに学ぶ意欲があったが、高校古文や大学入試に出てくる源氏物語については文学作品としてどういう意義があるのか、けっきょく理解できないまま卒業した。 ウィキペディアによれば、源氏物語は三部構成説、二部構成説、四部構成説というのがあるようだが、少なくとも前半部分は、光源氏の女性遍歴が中心になっているようだ。要するに光源氏がいろいろな女性と性的関係を結び、中には密通・懐妊、関係の強制、幼少の頃からの囲い込みなどが含まれているようだ。もっとも高校の授業ではそういう叡智な部分には一切触れていない。光源氏がこれだけ多くの女性と関係を持ったパワーの根源は性欲にあり、また登場する様々な女性の魅力も、容貌や人間的魅力ばかりでなく性的魅力にあったはずなのだが、それらに一切触れず、もっぱら綺麗事だけから「もののあはれ」を理解しようしているように思えてならない。 もちろん当時の上流階級の間では、身分が同じレベルの男女の間では比較的自由に性的関係を伴う恋愛が行われており、不倫や密通や幼女囲い込みはあまり問題にならなかったらしい。といって、今の高校生はそういう時代背景を知らないし、もちろん自分たちが体験しているわけではない。なのにどうして『源氏物語』を読みこなすことができるのか、私自身は高校時代からずっと疑問に思っていた。 さて、今回の『100分de名著』第3回では、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』(1799年)が引用されていた。そのなかには以下のような記述(安田登による現代語版)があるという。 物語というものは、「もののあはれ」を知ることをその旨としている。だから、そのストーリーには儒教や仏教などの教えに背くこと、すなわち倫理的に問題のあるものも多い。「あはれ(情動)」がものに動かされるときは、「善悪」や「邪生」など考えない。むろん、道理に反することには感動してはいけないということはわかる。しかし、情動は心のままならぬもの。どうしても我慢できない時もあり、そういうときには「悪いこと」とわかっていても情動が動かされてしまうこともある。確かに「もののあはれ」に焦点を当てれば、『源氏物語』を読まなければ分からないような人生の本質が見えてくるのかもしれないが、さて、それをどのように現代社会にどう活用できるのかがよく分からない。最後のくだりで「もし、倫理を云々したければ、その手の本を読めばいいではないか。」とあるが、それであるなら『源氏物語』は読みたい人だけが読めばいい。受験勉強のために無理やり読まされるのは、たまったものではない。 なお、源氏物語には「あはれ」が944回、「をかし」が534回登場しているという。どちらも「美しい」という意味だが、「あはれ」は思わずあーっとため息がでてしまう。「をかし」はもともと「招く(をぐ)」が語源であり、美しいものに自分が思わず招かれてしまうという意味になる、「をかし」は対象側が主体でそちらに興味をもつ、惹かれるという意味であると説明された。 このほか、伊集院さんからは、現代語では、
エモいとやばいの違いを分かりやすく言うと、「エモい」とは感情が動かされた様子を示す言葉であり、「やばい」とは感情だけでなく出来事などについて程度が過ぎている様子を示す言葉であるという違いです。というようにやや違った説明になっていた。もっとも、私のような昔人間には、「エモい」と言われても何のことかサッパリ分からない。「やばい」と言われた時は、「これは少々雲行きが怪しくなってきた」という意味でしか理解できない。 不定期ながら次回に続く。 |