【9/19朝の情報】 |
【思ったこと】
980918(金)[一般]信仰について(その6):科学的発見とはどういうことか 昨日の日記は、時間の関係で中途半端な不明日記に終わってしまい、何を言いたいのか分からないというようなお叱りもいただいた。 昨日の日記は、「科学的認識というのは、自然界に厳然として存在している普遍的真理をなんとかして見つけようとすることだ」と思われがちであるが、実際には「普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、人間の側の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うための秩序づけとして進化していくものだ」ということの具体例をあげたつもりだったのだ。 ここで海賊が隠した宝物を探すことを考えてみよう。この場合、我々は宝物がどういうものかをあらかじめ知っている。分からないのは場所だけである。もし科学的認識がこれと同じものだったとすると、見つけるべき「普遍的真理」は、それに取り組む時点で、我々が使用し我々が理解できる言葉で書いてあるはずだ。つまり昨日の日記の事例のように4000字で要約できる内容を含むものであることになる。 しかし実際のところはどうだろうか。例えば、「徳川幕府の埋蔵金の隠し場所」とか「和歌山の毒物混入カレー事件の真犯人の名前」というのは、日本国内のあらゆる地名や人名の数だけ予言リストを作れば、そのうちの1つに真実が含まれていると考えられる。しかし問題は、その真偽を判断するための莫大なエネルギーである。それらは確かに我々が使用し我々が理解できる言葉で記述できるが、検証の手段をもたなければ、何の役にも立たない。 さらに問題になりそうなのが、「タイムマシンの製作方法」のようなものであろう。何千年か後の人類がホントにそれを開発して文書に残し、それを現在の言語に翻訳してタイムマシンで届けてきたとして、我々はそれを解読できるだろうか。 使われている言葉がすべて辞書に載っていたとしても、それと同じ意味内容で使われているかどうかは定かではない。単に日常生活用語を転用しただけであって、単に文字や発音は同じだけであるという可能性が高い。 1000年前の人々にとっての電子レンジは、現代の我々にとってのタイムマシンのようなものであったに違いない。1000年前の人が、炎を使わないで物の芯から暖めるような機械は無いものかと、言葉をいろいろに並べて、いまある工業系の解説書と寸分違わぬ「電子レンジの作り方」の文章を作りだしたとする。その文章自体は、現代の人が読めばまことにその通りであろうと感服するであろうが、1000年前の人々は、電気とか電子という意味が殆ど分からない。「電」というのは雷からできた言葉らしいので、雷の子供が電子だろうなどと勝手に思うだけで、現実にはいまと同じレンジを作ることはできない。 科学的法則を記述する言語のは多くは日常用語から転用された語であるために「初めに言葉ありき」と素朴に考えがちであるが、ほんとうは、科学研究の進歩と共に進化していくものなのだということを言いたかったのだ。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【夕食後の夫婦の散歩】
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【生活記録】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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