じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
サルスベリ。もともと「一寸サルスベリ・あすか混合」という矮性早咲き種から育てたもの。種がこぼれ落ちて三代目ぐらいになった。一部は先祖帰りして高さ2m以上の大株になってきたが、写真の株はかろうじて50cm以下の高さを保っている。サルスベリは果樹と似ていて、たくさん花をつける年と殆ど花をつけない年が一年交代になっているようだ。太宰治の小説(確か『おさん』)にもそんな話題があった。 |
【思ったこと】 990709(金)[一般]何であれ努力を求める入試こそ必要 初めに、昨日の日記で私が言いたかったことは
さて、昨日のAO入試関連でリンクさせていただいたサイトの案内文を見ると、「人物」、「個性」、「意欲」、「情熱」、「適性」、...といった言葉が目につく。そういう学生が入学してくることはまことに結構だとは思うけれども、学力に代えてこれらを強調することには、まったく別の問題が潜んでいることにも留意しなければならないと思う。それは高校生に対して、何をどう努力したらよいのかを何ひとつ明示していない点である。 確かに受験勉強というのはあまり楽しいものではないし、学問の本質的な楽しみと無関係な受験技術を身につけさせたり、理解を広げることよりも成績の順位を上げることに関心が向くといった弊害があることは承知している。ただ、いかに弊害があるにせよ、最低限、「努力をすればそれなりの結果が得られる」という「精神修養」の場を提供していることは間違いない。もちろんこれは勉強だけでない。スポーツでも、TVチャンピオンで取り上げられるような各種の職人技でも一緒だ。 これに対して、抽象的に「人物」とか「個性」、「適性」などと言われても、高校生は自分がどう努力してよいのかさっぱり分からない。もしそれが生まれつき決まっているものであるならば(←行動分析学的にはそんなことは否定されているけれど)、何も努力しても無駄。相手が選んでくれるのをひたすら待つということしかできない。その点、小論文入試のほうが遙かに評価できる。努力をすれば、より優れた小論文を書けるようになるからだ。 そういうことをふまえて、AO入試や推薦入試についてより建設的な意見を述べるならば、ただ抽象的に「○○を重視」と規定するのではなく、高校生が努力の対象にできるような具体的な行動を明示してもらいたいということになる。それは別段、学校の授業科目でなくてもよい。スポーツ一般はもとより、歌や演奏、パソコン技術、さらには将棋、囲碁、チェス、オセロ、TVゲームでも構わないし、自転車による日本一周体験でもよい。アニメについてのクイズ王でも、料理選手権でもよい。何か1つでも具体的な項目を満たせば合格ということにしておけば、高校時代の努力が報われそれをバネにした積極的な活躍が入学後に期待できる。 余談だが、最近、教員採用試験においても「学力よりも人物本位」の選考、という方針が打ち出されたと聞く。このこと自体は結構だと思うが、「人物本位」という以上は、志望者が何を努力すればよいのか具体的な行動目標を明示することが必要であろうと思う。従前のように「学力重視」と言えば志望者はそれなりに勉強に励むが、学力は最低基準を満たせばよいと言われればそれ以上の努力をしても無駄になってしまう。それに代わって何を磨くべきかが明示されていなければ、言葉は悪いがなまくら人間ばかりが残ってしまうのではないだろうか。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【生活記録】
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【今日の畑作業】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
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