じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
冬の欅。生まれ育った東京・世田谷には大きな欅の木がいっぱいあった。こういう枝振りを見るとそのころのことを思い出す。 |
【思ったこと】 _00220(日)[心理]ことしの卒論をふりかえる(後編):Eメイル上での対人印象形成(続き)/老年期と現代青年の自我同一性 昨日の日記の続き。まず、昨日取り上げた「Eメイル上と対面状況で形成された対人印象の差異」についての補足から。 この卒論研究ではEメイルと対面場面のみが比較されていたようだが、Eメイルのどういう特徴が特異的な効果をもたらしたのかについてもう少し突っ込んだ検討がなされればよかったと思った。
Eメイル関連の話題はここまでとして、別の話題にうつる。今年度は「現代青年の自我同一性....」、「自我同一性と心理的離乳...」、「老年期の自我同一性...」というように「自我同一性」を題目に入れた卒論が3篇もあった。「自我同一性」については私は現時点では勉強不足のためコメントを保留しているが、能動的な働きかけがどう強化されているかという現環境を軽視して、人生における不可欠な発達課題であるかのように決めつけてしまうとしたらちょっと問題ではないかと思う。 少々脱線するが、この日記で不定期連載している『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(河出書房新社、1996年)で和田秀樹氏は、精神科医の立場から、旧人類型日本人をメランコ人間(躁鬱病型)、新人類型日本人をシゾフレ人間(分裂病型)として区別し、前者は心の世界の主役が「自分」(=妄想のタイプが「自分は悪いことをしている」「自分は正義の味方だ」など)、後者では主役が「周囲」(=妄想のタイプが「周囲が自分の悪口を言っている」など)となり[p.82-84]、後者では病的でないにせよ「自分のない」感覚が強いと指摘しておられる[p.99]。和田氏の御主張にはまだ納得のいかない点が多々あるのだが、それはそれとして、もし現代の若者がメランコ人間からシゾフレ人間に変化してしまったとしたら、かつてメランコ人間が多数を占めていた時に標準化された諸々の自我同一性関連尺度なども、物差し自体が使えなくなってしまっている可能性がある。 ところで上記3篇の卒論のうち、私が査読を担当したのは「老年期の自我同一性の再体制化」をテーマとしたものであった。老年期は、退職に伴う人間関係の変化、身体的な衰え、配偶者の死亡、子供の独立など、さまざまな喪失に遭遇する。その変化に適応するための再体制化が起こるというのが執筆者の仮説であった。 じっさい、この種の変化には多くの高齢者が遭遇するものであろうが、青年期のように首尾よく再体制化が達成される高齢者がどの程度の比率を占めているのか、疑問が残るところがある。修行を積んだ高僧であれば宗教と関連づけながら再体制化をはかれるに違いない。しかし大概の高齢者は、再体制化を図ろうともがいているうちにさらに別の喪失に出会い、最後は病床に伏す。となると、再体制化の視点から高齢者の生きがいや「老化への心理的適応」を分析しても、あまりにも空しいような気がする。それと、この論文では、エリクソンの心理社会的課題及び危機の諸側面に関する質問項目、ほかに自我同一性SCT(文章完成テスト)スコアリングマニュアルの質問項目が用いられていたが、こういう言語的な質問が実施できる年齢にも限界があるだろう。あまり年を取ってくると某テレビ番組(※追記: ”さんまのからくりテレビ”の”ご長寿クイズ”)で鈴木史郎アナの質問に答えるお年寄りのように、分析不能の答えばかり返ってくる恐れがある(←あの番組は、質問が聞き取れないかヤラセではないかという疑いを持っているけれど)。 ではどうすればよいか。高齢になり介護を必要とするようになっても外界に対して何か働きかけをすることが残るはずだ。そのリパートリーを出来る限り多様化し、それぞれに具体的な結果が伴うような環境を保障すること、そのリパートリーの出現可能な範囲で随伴性環境の統合を目ざすことがミニマムの再体制化に結びつくのではないだろうか。要するに「再体制化」は心の中で図られるものではなく、随伴性の整備によって結果的に出来上がってくるというのが私の考えなんだが、どうだろうか。 |
【ちょっと思ったこと】
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【スクラップブック】
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【今日の畑仕事】
雑草とり。レタスと長ネギを収穫。 |