3月21日(火)
【ちょっと思ったこと】
- 3/22の朝日新聞に「英語公用語化論」に関する意見がいくつか掲載されていた。
- 「論壇」で、桂敬一・東京情報大学教授は、「公用語というのは数種の言語が用いられている国家で、公の目的のために用いられる言語」がその定義であると指摘している。つまり、複数の公用語がある国や地域では、そのうちの1つの言語が使えれば公的情報の利用に不便をきたさないということであって、国民に複数の公用語全部の修得を義務づけるものではないということだ。簡単に言えば、政府が使用を約束する言語という意味。
桂氏はさらに、そういう意味での公用語をふやすならば、在日の朝鮮半島出身者のための韓国語・朝鮮語や日系南米人のためのスペイン語をまず公用語にすべきだと指摘し、さらに、「文化や社会の多元性を大事にする、そのような優しさが日本の行政過程にしみ通るようになったら、日本人自身がこの国を住みよく感じるようになるだろう」、そういう点をわきまえずに公用語化論を展開するのは、「英語を第二国語にするに等しく恥ずかしい話だ」と主張されていた。
- 同じ日の「声」欄には「日本語知らず英文を訳せず」という大学教授、「日本を説ける英語の習得を」という大学生の投書があった。大学教授は、自分の教えている外書講読の授業で学生が英語を訳せないのは英語力不足以前の問題として日本語ができないということにあると嘆いておられた。しかし、英語翻訳に限っては、英語力、日本語力以外に翻訳技術の勉強も必要であり、訳文が日本語になっていないからといって単純に日本語力の不足には帰着できないようにも思える。例えば、
- 関係代名詞や接続詞がつらなる構文をどういう語順で訳すか
- 名詞表現主体の英文を動詞表現主体の日本語にどう訳すか
- 無生物主語の英文をどういう日本語にするか
というのは、いくら日本語力があっても、あるいはネイティブに近い形で「英語を英語として理解する力」があっても不十分。
さいきん「英語教育重視のまえに、まず日本語や日本の文化を」という論調をよく見かけるが、公用語化論の賛否は別として、日本語や日本文化の理解と外国語や外国文化の理解は必ずしも排他的なものではない。短絡的な二者択一論議に陥らないように私も自戒したいと思う。
- 「地球24時」には、立候補予定者の「落選運動」が行われている韓国で、ハングル・漢字併用運動の嘆願書に賛成署名をした現職議員も落選運動の対象になったとのニュースが伝えられてきた。少なくとも日本と中国の間では、漢字表記は上記の意味での公用語に準ずる働きをしてきたように思う(同じ漢字を使っていても、字体や熟語にかなりの違いがあることは確かだが)。そんななか、韓国や北朝鮮が漢字使用に否定的な方向に向かっているのは何か文化的な背景があるのだろうか。
- 同じく3/22の朝日新聞によれば、自民党の森幹事長は20日の石川県内の講演の中で、昨年11月の「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」のビデオを上映し、「君が代斉唱の時、沖縄出身の歌手の一人は口を開かなかった。....」などと述べて沖縄の教育を批判したという。祭典でその歌手がどういうポーズをとったのか、森氏がどういう文脈の中でこの発言をされたのかは定かではないが、いずれにせよ、ビデオで録画された映像から口の開き方までチェックされるのはちょっと怖い気がする。
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【生活記録】
アパート周辺で恒例の粗大ゴミ一斉回収。粗大ゴミと言えば、これまではもっぱら拾うばっかり。このWeb日記を書いているスチール机、椅子、サイドテーブル、後ろのスチール本棚、私が使っている洋服ダンスなどはすべて拾い物である。
しかしさすがにこれ以上物は入らない。子どもたちの持ち物も増えてきたので、今回からは「捨てる人」専門で臨まなければならなくなった。
押入からとりあえず不要のものを出す。スーツケース、フレームザック、扇風機など...。前に拾ってあった自転車2台も、けっきょくパンク修理が面倒になり捨てることになった。
これでスッキリ....と思ったのだが、勿体ながり屋の私は、ゴミ置き場に使える物があるとどうしても手が出てしまう。けっきょく、今回も、スチール椅子、藤製の葛籠、スキー板を拾ってきて妻に怒られた。
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【今日の畑仕事】
本日もチンゲンサイを大量に収穫。ジャガイモ植え付け。
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【スクラップブック】
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