じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
レンギョウと時計台。 |
【思ったこと】 _00408(土)[社会]新首相の「心の豊かな美しい国家」論は性悪説なんだろうか/原則堅持型人間とモラル 思考回路さんの日記を通じて、第147回国会における森内閣総理大臣所信表明演説が掲載されているページの存在を知った。新聞に頼らなくても首相の演説内容がそっくり入手できるとは便利になったものである。 森首相の演説内容には、今回述べることを含めて何となく耳にしたことのあるキャッチフレーズがちりばめられている。小渕政権からの継承を強調したためだろうか。演説の中には「循環型社会の構築」など実現に期待される点も多くあるけれど、「心の豊かな美しい国家」論の中の以下のくだりにはちょっと引っかかるところがある。 戦後のわが国の教育を振り返れば、わが国経済の発展を支える人材の育成という観点からは素晴らしい成果を挙げてきたと言えます。他方、思いやりの心や奉仕の精神、日本の文化・伝統の尊重など日本人として持つべき豊かな心や、倫理観、道徳心を育むという観点からは必ずしも十分でなく、こうしたことが、昨今の学級崩壊、校内暴力等の深刻な問題を引き起こし、さらには社会の風潮に様々な影響を及ばしているとも考えられます。「こうしたことが、〜とも考えられます。」と「とも」を挿入している点はいかにも政治家らしい非断定的な発言ではあるが、「〜とも考えられます。」というのなら、どれ以外にどういうことが考えられるのかをすべて列挙してほしかったと思う。 さて、ここで可能性の1つとして指摘されている点だが、見方によってはこれは 人間というものは、「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などについて十分に教育しないと、学級崩壊、校内暴力等を起こすものであるという、ある種の性悪説の立場にたっているとも言える。それとも、人間の大部分は性善であるが、社会環境に悪の根源があり、その欲を断ち切るための教育が必要だということなのだろうか。また、教育の不十分さが学級崩壊、校内暴力等の原因になりうるとするならば、同じ戦後教育を受けた40代、50代の人達はさらにワルになっていると考えるべきなのか。 すべての教育がそうであるように道徳教育でも必ず「落ちこぼれ」が出てくるものだ。学級崩壊とか校内暴力とか言っても、クラスの過半数がそれに関与しているわけではなかろう。道徳教育になじまない生徒こそが問題なのであって、それを抑止するためには別の手段を講じなければなるまい。このあたりも「教育改革国民会議」でもきっちりと議論してもらいたいものだと思う。 もちろん新首相が言われている「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などを育てること自体は大いに結構なことである。しかし、もしそれを教育の場面で形成するためには、別の側面も考慮していく必要がある。というのは、道徳とか倫理によって住みやすい生活環境を実現するためには、 人間は特定のルールに一致した行動をするものだ。あるいは「過去の言動や行動と整合性のとれた行動をするものだ。という前提が必要だからである。もしこのような一貫性が無ければ、いくら熱心に教育をしても、それは状況に限定して自発される行動に終わってしまう。学校の中ではちゃんと先生にお辞儀し、ゴミはゴミ箱に、級友とは仲良くしている生徒が、いったん学校の外に出ればたちまち、ゴミはポイ捨て、気に入らない通行人にイチャモンをつけるということだってありうるだろう。思いやり精神を強調する教師が、嫌煙者の隣でタバコをふかすということも起こりうる。4月4日の日記で取り上げた「原則堅持型人間」と「柔軟対応型人間」という区別で言えば、要するに「原則堅持型人間」を作らない限りは、倫理とか道徳の教育をしても効果無しという可能性が高いのである。 時間が無くなってしまった。「一貫性のある行動」については 『受験勉強は子どもを救う』か(11) 「原則堅持型人間」と「柔軟対応型人間」について 考える(後編)の連載として、引き続き考えていくことにしたい。 |
【ちょっと思ったこと】
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【今日の畑仕事】
キャベツ、ハツカダイコン、ブロッコリーを収穫。インゲンとトウモロコシの畑耕す/ |
【スクラップブック】
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