じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
病室の窓から見た朝焼け(9月13日5時38分頃撮影)。沖縄付近の台風4号と、それに刺激された秋雨前線の影響で、名古屋方面では洪水により大きな被害があった。岡山でも、6月の梅雨以来と思われるほど久しぶりに、丸二日にわたって雨が降り続き、9/13未明になってやっと晴れ上がった。 |
【思ったこと】 _00912(火)[心理]行動分析学会年次大会:「救うための科学」か「科学のための科学」か 9月9日から10日にかけて、東京学芸大学で日本行動分析学会年次大会が開催された。私は、行動分析は「生きがい」にどう取り組めるのかというテーマで発表を予定していたが、ケガで入院中のため参加を断念せざるをえなかった。 学会から戻ってきたゼミの院生の報告を聞いて改めてプログラムを開いてみたが、院生の「行ってよかった」という感想とは裏腹に、私個人は一連の個人発表の内容には必ずしも満足できないところがあった。今回の大会の個人発表をタイトルからの推測でおおざっぱに分類してみると、社会的弱者支援と実験的行動分析の報告だけで2/3以上を占めていたことだ。なぜもっと、一般社会人が抱えている現実的諸問題に目が向かないのか、マロットが行動分析の教科書『Elementary principles of behavior』(Malott, Whaley & Malott, 1997)で掲げている「Save the world with behavior analysis.」というスローガンはいつになったら実行に移されるのか.....、「生きがい」を扱おうとした私から見ればどうにも寂しい気がする。 もっとも、こういう傾向が出てくるのはやむを得ないところがある。思いつくままに理由を挙げてみると、
このうち3番目に挙げた理由は実験的行動分析に失望していると言っているわけでは決してない。スキナーの研究自体、実験箱に入れられたネズミの条件づけから出発しており、そこから現実社会に適用できる多くの原理が発見されたことは周知の事実である。また、現場への応用を強く志向した実験研究も少なくない。とはいえ、実験的行動分析は、実験装置と被験体(者)さえ確保されるならば、人類絶滅後に偶然に取り残された生命維持機能付きカプセルの中でも研究を遂行できるのである。実験的行動分析家自身は、人や環境を変えることに喜びを感じるのではない、自らの理論に基づく予想が実証され、理論がふくらみ、それが同僚に広く受け入れられることによって強化されているのだ。じつは、スキナーとともに『Schedules of reinforcement.』を著したFersterが、「Is operant conditioning getting bored with behavior?」というエッセイ(Ferster, Journal of the Experimental Analysis of Behavior, 1978, 29, 347-349.)の中で似たようなことを言っておられた。 「Save the world with behavior analysis.」をスローガンに掲げたマロットは、上掲の教科書の同じ部分で、「Understand the world with behavior analysis.」とも言っている(p.429)。その趣旨は、 But there's also a theoretical side──the notion that science, including behavior analysis, is of vale in its own right. More precisely, there's the notion that our scientific understanding of people, the world, and the universe is of vale regardless of whether it helps us save the world. According to this view, science, including behavior analysis, is like art and music. Even if it doesn't contribute much to saving the world, it makes the world a better place to live in and thus a world more worth saving. Just as we have art for art's sake, so we have scientific knowledge for knowledge's sake.上記の文を多少誇大に解釈するならば、世界を救うことに役立たない科学というのもあってエエじゃないか、それがあればこそ、世界は救うに値するのだ、ということになるかと思う。 マロットに従うならば、たとえ理論のための理論、実験のための実験でも、世界の理解に何かしら役立つならば実用性は度外視してもよいということになる。この見方が、 という行動分析ライクな科学観と一体のものとなりうるのか少々疑問が残るが、ま、穏便な見方をするなら、 科学は外界を秩序づける道具である。ただし道具の中には装飾品があってもよい。ということになるのだろう。 私がもし、実験的行動分析だけに分野を絞って研究を続けたならば、おそらく毎年外国雑誌に2編ずつ投稿するぐらいのペースで研究生活に没頭することになったであろう。しかし、それだけで一生を終えるのは私には耐えられない気がした。そういう方向転換のきっかけになったのは、1つのテーマの実験研究だけで教員生活を終えた某教授の「○○研究四十年」というような発表に空しさを感じたためかもしれないし、「心理学の基礎研究とは、いつまでたっても決して役に立たないような研究のことである」と言いながら基礎研究を続ける某教授の姿勢に疑問を感じたためかもしれないし、世の中の出来事には全く無頓着でひたすら論文読みと執筆にあけくれる生活を病的であると感じたためかもしれない。ま、他人はどうあれ、この転換は、少なくとも私にとっては正しい選択であったと思う。 |
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