じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
フジバカマ。秋の七草の中では最も稀少で、野生のものは滅多に見あたらない。ここにあるのは花屋で売っていた園芸種の3年物。右後ろの黄色い花はオミナエシ。こちらのほうは6月下旬から咲き続けていたがそろそろ茶色くなってきた(6月25日の日記参照)。 |
【思ったこと】 _00927(水)[心理]園芸療法・園芸福祉を考える(2)「園芸療法に関する公開講演会」 午後、松葉杖をつきながら「園芸療法に関する公開講演会」を聞きに行った。少し前から「園芸療法」についていろいろと情報を集めているところであるが、今回やっと、ナマの声を拝聴する機会を得た。基調講演はバージニア工科・州立大学園芸学部のダイアン・レルフ教授、他に日本人の医療関係者による研究調査報告や実践報告があった。 レルフ教授の講演では、
続く研究調査報告では、広島県内の556施設の現状が報告された。回収数234の中で約半数が農・園芸活動を行っている。そうした園芸活動を治療・訓練として位置づけているのは、どちらかと言えば、高齢者福祉施設よりも障害者福祉施設のほうが比率が高いということだが、示された数値からは大差ないようにも思えた。 実践報告では広島県内のある施設で花の寄せ植えなどに取り組む重度痴呆患者、視覚障害者などのイキイキとした様子がスライドで紹介された。 おおざっぱな感想を述べれば、レルフ教授の講演は園芸療法の効用を客観的に実証するというよりも、園芸活動が人間の幸福と生活の質の向上にとって不可欠であり、その権利を行使する機会を障害者にも保障する必要を説いている、との印象を受けた。 この点は続く研究調査報告も同様であり、園芸療法の効果について寄せられたアンケートの回答は「体力がついた」、「明るくなった」、「周囲の人との会話が増えた」という抽象的で主観の入りやすい内容にとどまっていた。 全体の質疑応答のさい、私は「園芸療法の効果はどのような形で評価されているのか」と質問してみたが、脳波や発汗など生理的指標を用いる試みがある程度で、今後の大きな課題として残されているような印象を受けた。また、コーディネータの先生は、医療という意味での「療法」よりも生活指導的なかかわりを強調しておられた。 もっとも、「園芸療法」が「療法」という名に値するだけの効果を実証できないとしても、各種福祉施設でそれを取り入れることは大いに意義のあることだと思う。自然とのふれあいが人間の根源的な欲求であり、それ無くして真の精神的な安らぎが得られないとするならば、上にも述べたように、どんなに介護を受ける状況になったとしても、自然とのふれあいの機会は最大限に保障されなければならない。それも、ただ眺めるだけの景色ではなく、各人が能動的に働きかけそこに結果が随伴するような内容、つまり、じっさいに種をまき、苗を植え、水をまいて育てるという機会が保障されなければ生きがいにはなり得ないだろう。そういう意味での普及活動はぜひとも必要であろうと思った。 「園芸療法」の効果については、確かに群間の平均値を有意差検定するような検証は難しいと思う。しかし、単一被験体法を取り入れたシステマティックな検証であるなら可能なはずである。例えば、療法を実施する前と後で発話の頻度や内容がどう変わったとか、屋外に出たがる回数がどう増えたとか、能動的な働きかけや自立的行動がどれだけ増えたかなど.....。脳波や発汗ではなく、こういう行動の変容を客観的に捉えることこそが本当の意味での効果の検証になるのではないかと思う。 もうひとつ、同じ園芸の中でも、花を育てる場合と野菜を育てる場合の効果の違いについて質問してみたが、特に大きな違いは無いとのこと。ただし、野菜の栽培は花の寄せ植えに比べると時間的なスパンが長いため、記憶の残らない痴呆症のお年寄りの場合には、「育てる→収穫」という喜びが得られないようだとのご回答もいただいた。 一般には、花を育てる場合は、人にも見せるという公共的性格がある。野菜の場合は、人類の生活の基本に文字通り根を下ろしているという側面があり、収穫物を味わうという直接効果的な結果が伴う反面、自分だけで楽しむという側面が強い(もちろん、人に贈ることを喜びとして野菜を作る人もいるけれど)。このあたりも、もっと実証的な検討が求められるのではないかと思った。 余談だが、10月14日に東京で「人間・植物関係学会(仮称)設立準備会」が開催されるという。河合雅雄先生の「人はなぜ自然を求めるか.人と自然の真の共生とは」とともに、今回基調講演をされたダイアン・レルフ先生が「人間と植物とのかかわりの解明とその応用」という講演をされることになっている。懇親会も予定されているので、時間があれば参加させていただこうと思っている。 |
【ちょっと思ったこと】
|