じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
四季咲きのラベンダーが正月を前にたくさん咲いている。背景の赤い花は椿。 |
【思ったこと】 _01228(木)[心理]「こころ主義」批判 28日は仕事納め。月曜日から連日続いていた全学の委員会やFD関連の講演会もやっと終了。これから8日までは、とりあえず公的な用事の無い日々が続く(←9日からはまた、連日授業と会議の日々)。 そろそろこの一年をいろいろな形で総括しようと思っていたところ、29日朝の朝日新聞「私のメディア批評」になるほどと思わせる論評があった。タイトルは“「こころ主義」まん延した一年”、執筆されたのは、姜尚中(カンサンジュン)・東京大学社会情報研究所教授である。 姜尚中氏は、米国の大統領選挙開票時の混乱、前首相病死、偶発的な出来事が引き金となってキレてしまう少年たちの犯罪などをひきあいに出して、「社会のシステムが偶発的なものにぜい弱であることがわかれば、不安が増大し、信頼できる安全なものや確信のもてるものにすがろうとする傾向が著しくならざるをえない」こと、そして、その要請を満たすためのメディアのあり方について論じておられた。 ほんらい、こうした不安を解消するためには、社会や環境一般の複雑さや不安定さをありのままに受け入れ、多様な可能性を探るためのクリティカルな思考を磨くことがぜひとも必要であろうと私は思う。しかし、一部のメディアやそれに担ぎ出された評論家たちは、「専門性の衣をかぶった」まことしやかな事後解釈で人々を安心させ思考停止させてしまう。それは結果的にクリティカルな思考の芽を摘むことにもなる。 姜尚中氏はその最たるものとして「こころ主義」を挙げておられた。姜氏によれば、それは 恐ろしく複雑な社会環境を人のこころ、その内面の問題に封じ込めて出来事の原因をわかりやすく説明しようとする動きであり、 、偶発的なものに翻弄される社会の価値や信頼感を、閉じられた世界のなかで回復した気にさせるひとときの「いやし」という役割を果たすにすぎない。それによって救われる人々が居ることは確かだろうが、それは本質的に何も解決しない。少年犯罪の解釈などはまさにそれであり、姜尚中氏はその点について、 少年犯罪が起こるたびに「こころの闇」という常套的な文句が繰り返されたことにそれがよく現れている。心理学者や精神分析医が、被疑者の少年たちに対する問診もないまま、少年たちの「こころの闇」を勝手に解析し、その専門性の衣をかぶった言説がメディアを通じて垂れ流される光景は異様だった。少年犯罪の原因を少年の家族やその「こころの闇」に閉じ込めることで、差し当たり社会の安全圏が確保できるのかもしないが、それでは今後も少年犯罪は後を絶たないだろう。とまことに的確な指摘をしておられる。私が1/30の日記あるいはそれ以降で言いたかったのはまさにそういうことだ。 「こころ主義」はまた、「こころの教育が大切」とか「こころを豊かに」という形で安易に主張されることがある。この場合の「こころ」は物質主義に対比的に用いられ、“「モノ優先の文化」が「こころの貧しさ」を生んだ”というような使われ方をするが、たいがいの場合、具体性に欠けている。とはいえ、モノ優先主義を唱える人も居ないので、おおかたの同意を集める。試しに何かの討論会でこう言ってみるがいい。 私は、今の世の中でいちばん欠けているのはこころの豊かさではないかと思います。いまこそ、こころの教育が大切だと思います...きっと拍手喝采を浴びるにちがいない。 では、「こころ主義」に頼らない議論をするにはどうすればよいのか。それは、安易に「モノvsこころ」という対立軸を持ち込まないことだろう。そのためには、もうひとつ別の概念として「コト」を持ち込むこと、「コト」が「モノ」とどう関わるか、「コト」と「こころ」は対立的に考えるのではなく、表裏一体のものとしてとらえることではないかと、最近特に思う。このことは例えば、「好子(強化子)」を「モノ」ではなく「コト」としてとらえるべきだとか、英語の「モノ」てきな概念を日本語の「コト」的概念に置き換えてみるべきだといった主張につながることになるのだが、その見通しについては来世紀に改めて考えていきたいと思う。 |
【ちょっと思ったこと】
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