じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
21世紀最初の日の入り。元旦の朝はダイヤモンド富士など、各地の日の出の様子が紹介されたが、岡山では雲が多く初日の出を眺めることができなかった。 |
【思ったこと】 _10101(月)[一般]新年にあたって(1)「手間を省く」から「質の高い手間をかける」時代へ 21世紀最初のお正月ということで、これから先のことについて思ったことを書いてみようと思う。 20世紀の歴史は一言で言えば人類が「手間を省く」ことに専念してきた時代ではなかったかと最近特に思う。それは例えば
ここでもう一度「手間」の意味を『新明解』(三省堂、第五版)で調べてみよう。 手間:仕事を完成するのに要する努力・時間。これを見る限り、手間は決して省くべきものとは限らないことが分かる。仕事を完成する努力や時間を削ってしまったら何が残るというのだろう。 ところで「手間を省く」ことは不便を便利にするという意味でも使われる。そこで同じく『新明解』で、「便利」とは何かを調べてみると 便利:それを使う(そこに在る)ことによって、何かが都合よく(楽に)行われる様子。となる。ここで大切なことは、便利になっても、都合よく行われるべき何かが残らなければ意味が無いということだ。便利さを追求するあまり、すべてを機械に任せてしまったら、人間が生きがいを見出すべき行動は何も無くなってしまうだろう。 「手間を省き便利さを追求する」というのは最近の「IT革命」論議にも受け継がれているようだ。ネットで買い物すると便利だと言うが、それで本当に商店街は活性化できるのだろうか。数日前のラジオで米国の大手ソフト会社が「未来の家」なるものを展示しているというニュースを聞いた。これもまた「手間を省ける」家なのだそうだが、さてそこに住む人は家の中で何をして過ごすのだろうか。 動物が植物と異なるのは、環境に能動的に働きかけ結果を得て適応していくことにあった。能動的な働きかけの中にこそ主体性があり、活気があり、個性が潜んでいるのである。それを追求していくためには「手間を省く」発想を捨て、手間をかけることを厭わない姿勢が求められる。 ということで、元旦を迎えての結論。手間の価値を見直そう。そしてスキルを上達させ手間の質を高めることに精魂を傾けていこう。21世紀はそういう時代になると私は期待する。 |
【ちょっと思ったこと】
賀状交換のネット化は難しい 21世紀最初の元旦は例によって年賀状の返事書きから始まる。ゼミの学生に「賀状はネットで」と事前に希望していたことが口コミで伝わったらしく、教室の学生からは一通も賀状が来なかった。さすが優秀な学生諸君である。 ネットでの賀状交換については、一昨年のHP上で 年賀葉書の交換は年に一度の楽しみでもありますが、その反面、紙資源やインク資源、輸送コストの無駄遣いであるようにも思えます。そこで、一昨年より、賀状の代わりに、ネット経由で賀状交換を始めることにしました。この趣旨にご賛同いただけます方は、以下のいずれかの方法にてメッセージをお送りください。ご記入いただいたアドレスあてにEメイルにて賀状をさしあげたいと存じます。なお、正月に、長谷川からの賀状を受け取られた方もとりあえずここにてEメイルアドレスをお教えいただければ、来年よりEメイルによる賀状交換に切り替えさせていただきます。と表明したことに始まる。主要な手段としては、個別のEメイル、掲示板への書き込み、電子年賀状配信サイト利用の3つが考えられるが、Eメイル経由は10通未満、掲示板書き込みは元旦の夕刻まででゼミ生からの2件のみ、電子年賀状配信サイト経由も4件だけだった。 私が受け取った電子年賀状は以下の配信サイトから送信されたもの。それぞれの印象を付すと
このほか、Hotmailから配信されたものにそのまま返信しようとしたら、登録画面が出てきた。この忙しい時期に、アンケートなどに答えてメイルアドレスの登録をするほどのヒマはない。こちらから送信するたびに寄付が行われるというのは結構だとは思うが、返信の手間はできるだけ簡素化してほしいものだと思う。 総じて、元旦に関する限り、この電子年賀状サイトをとりまくネット環境は必ずしもよくなかった。まだまだ改善の余地がありそうだ。 それから、上記の「手間を省く」から「質の高い手間をかける」時代へとの関係で誤解が無いようにお断りしておくが、賀状交換のネット化を推進しているのは決して手間を省くためではない。郵便経由の賀状では年に一度、一方通行だけの通信しかできないが、ネット経由であればその日のうちに何度でも交信を交わすことができる。義理ではなく内実をともなった挨拶を交わすためにも、ネット経由の賀状交換をさらに進めたいと思っている。 |