じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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アパートの入口付近で咲いているセージ。メドウセージだったか、メキシカンセージだったか、忘れてしまった。この場所には、これまでいろいろな種類の苗を植えたが、けっきょく、この種のハーブで統一しておくのが、景観上からも、手間がかからないという点から最適であるように思う。 |
【ちょっと思ったこと】
男はつらいよ第一作を観る テレビせとうち(TV東京系)の「男はつらいよ」第一作(1969年)を観た。第一作を観るたのは今回が初めて。
実は私自身は「男はつらいよ」は5〜6本しか観たことがない。今回観たのも、ファンだからというより、なぜあの映画があれほど長期にわたり観客を動員し続けたのかというヒミツを知りたかったからだ。第一作を観た限りでは寅さんの失恋の基本パターンはすでにできあがっており、遠山の金さんや水戸黄門と同じく、偉大なるマンネリズムの始まりといった感じがした。となると、あれだけの人気を保ったのはストーリーの面白さとは別のところにあるはず。毎回交代するマドンナの抜擢に成功したのか、舞台となった各地の旅情が人気を支えたのか、各種の評論にあたってみたくなった。 翌朝、ネットでざっと検索したところこちらに、全48作品(プラス特別編1作品)のタイトル、マドンナ、あらすじが紹介されていることが分かった。寅さんの作品はすべて山田洋次氏が監督をされていたと思い込んでいたが、原作と脚本が一貫していただけで、監督のほうは、第3作は森崎東氏、第4作は小林俊一氏、.....というように、他の方の名前も何人か見受けられた。各監督の独自性はどういうところに発揮されたのだろうか。 |
【思ったこと】 _11008(月)[心理]「老いる」ということ(3)「終わりよければ.....」という発想 昨日の続き、この連載の最終回。高塚先生の講演は
3.では、介護をする際の留意点について、長年の実践経験に基づく貴重なお話しを伺うことができた。 2.で言及した「葉っぱのフレディ」でも描かれているように、どんなに元気なお年寄りでも最後は死を迎える。マザーテレサのいちばんの偉業は、誰にも見取られることもなく孤独に死を迎えようとしている人に、せめて最後ぐらいは安らかに迎えさせてあげようという趣旨の「死を待つ人の家」を作ったことにあるという。人生はオセロゲームのように黒(ここでは不幸)と白(ここでは幸福)を織り交ぜて最後に至るものであるが、最後に置いた白石によってすべてがひっくり返ればそれでよしと考える。逆に、人生の中盤で白石が多くても、最後に黒ばかりになってしまうようでは空しいものだ。 この「終わりよければすべてよし」とする発想については、賛否両論があるかと思う。私自身は、最後にどんな惨めな死に方をしても、過去の栄光が消えることはあるまい、一発で白黒が反転するオセロよりは、むしろ、ある程度の石を取ったり取られたりする囲碁程度のものではないかと考えているのだがどうだろうか。 さて、話を元に戻し、そういう最後を迎える前の段階では介護に際して何に気をつける必要があるのだろうか。高塚先生が言われたことの中で特に参考になったのは、「聖フランシスコ兄弟の家」という施設に掲げられているという標語のうちの
もう1つ、そしてメインテーマであったのが、感謝についてのとらえ方。感謝というのは、老人のほうがまだしゃきっとした人の側にいて、最後まで残された「相手に喜びを与える」というたった1つの力を使っていることなのだと言われた。このあたり、どちらかと言えば孤独を好む私にはなかなか実感できないところがあるが、大切なことだとは思う。 講演後、この「感謝」が自立を妨げ共依存をもたらすことは無いだろうかと妻に話したところ、少なくともヘルパーの講習を受けている人だったら、そこらへんはちゃんと分かっているはずだと言われた。 以上、うまくまとめることはできなかったが、3回にわたり講演の感想を述べた。今後の高齢者福祉の議論に活かしていきたいと思っている。 |